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昔の店


40年前と内装がかわらない中華料理屋に行って飲んでみる。

もやし炒めに餃子でビールを飲んでいると、時間がタイムスリップした。本棚に『男おいどん』と『うしろの百太郎』が並んでいる。

椅子もテーブルも70年代からそのままだし、床やドアや扇風機やトイレも70年代のまま残っている。

老夫婦もおそらくかわらないし、昔みた風景がリアルによみがえってきて恐くなる。

70年代は子供が多かった。近所の中華料理屋の子供もいて、店に漫画を読みに行ったり、夏休みに留守番の子供同士がその店に食べに行ったりした。

自殺する気はないが、よく「もういいかな」とか「死にたい」と思うのはこういうことだ。

40歳を過ぎると、生まれてから慣れ親しんできた世の中がかわっていくのについていけなくなってくる。テレビにも漫画にも音楽にも夢中になれず、才能ある若い人たちが作り出すものの魅力が理解できない。次から次に登場する新しいものとできることならかかわりたくない。

1970年生まれの私には携帯とパソコンまでで限界のような気がする。これ以上新しいものに接すると頭がショートする。

守るべき家族もいないし、「もういいいかな」と思い、朝から酒を飲んでしまう。

扇風機の風を浴びながら『男おいどん』を読んでいたら泣けてきた。

不思議な時間なので、熱燗とウーロンハイを追加した。メニューには酒(一級)と書いてある。

私の母は恐ろしいほど料理が下手だったので私はおふくろの味を知らないが、熱燗ももやし炒めも餃子も昔の味がする。

クワガタ捕りに行った帰りに友達の中華料理屋に寄り、扇風機の風を浴びながら漫画を読んだ記憶がよみがえってくる。

1時間で腹一杯になり、しめにカレーライスを頼むとまた昔の味がした。スプーンが昔うちにあったものと同じだ。スプーンだけではない。コップも調味料も何もかもが恐ろしいまでに昔のままだ。

この店に通うと、死んでしまうかもしれない。(山田)


 

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昔の味

 

新しくできた安い店に入ってみて失敗した。もう期待できないから新しい店には入らない。どうせいい店ではない。合わない。

店主がいちいち話し掛けてきた。名前を聞かれ、住所を聞かれ、名前をフルネームで聞かれたので「そこまで詳しくいろいろ聞かれたくない」と答えたら「では、なぜ、酒を飲みにくるのか?」聞かれた。

考え事をしたり、時間をつぶしたり、気分を変えたりリセットしたい。

「それなら、なぜ、カウンター席に座るのか?」

いちいちうるさい。話が止まらず、私だけが酒を飲んでいづらい雰囲気になり、仕方なく店主に一杯すすめた。

テーブル席を一人で占領するのは悪いし、はじめての居酒屋でテーブル席に一人で座るのは勇気がいる。酒を運ぶ距離も遠くなる。黙って飲めるカウンター席を探している私が悪いのかもしれないが、黙ってカウンター席で飲める店があってもいいはずだ。

「みんなで楽しくワイワイ飲む店」だという。

おやじの話とは裏腹にいつまでたっても客が入ってこない。

間がもたないので私の横にじっと立っているアルバイトの若者にも一杯すすめると、大ジョッキを飲むという。近所の大学のスポーツ選手で大ジョッキを一気飲みしてみせてくれたが、そんなことをされても、少しも嬉しくないし楽しくもない。早く店を出たいが、誰もいないから帰りづらい。嫌かっていることがわかってしまいそうで席を立つ勇気がない。若者は私の隣に腰掛けてしまい、私は私用のつまみを彼の前にずらし、食べるようにすすめた。早く帰りたい。

おやじと若者と三人で私の金でいつまでも酒を飲んだ。二時間してやっと次の客が入ってきたので入れ替わりで店を出た。もうあの店にはいかない。ワイワイ飲んだが、全然楽しくなかったし安くなかった。

 

昔は料理のうまいお母さんが多かった。人のうちでごちそうになり、「あー、おいしかった」と思うこともよくあった。最近はそういうのがない。出てくるのが昔馴染んだ味とかわった。私の母は料理ができなかったが、祖母のつくる酒のつまみはうまかった。刻んだ油揚げとにんじんを甘じょっぱく煮たのが一番おいしかった。

建物や内装が昔のままで、それでいて清潔そうな店をあたっていくと、ごくたまにそういう味を受け継いでいる女将さんに出会える。

あの味はテレビや料理教室で学んだのと違う。店で修業したのとも違う。きっと親から学んだり、誰かをみて空気で身に付いた。つくっている姿をみていると、丁寧で手抜きがない。包丁の音も、煮たり揚げたりする音も、漂う湯気もかおりも料理人と違う。商売の前に、相手を思いやるやさしい性格が伝わってくる。野菜のおひたしが、色、水切り、歯ごたえ、最高のコンディションで出される。たっぷりふりかけたかつお節に感動する。料理にのりが必需品の世代だからかおりのいいのりを選んで、使い方がうまい。料理が映える。

まな板の上が散らからない。水浸しにならない。ふきんでまな板と包丁を拭いて何度も一息入れる。いちいち整頓しているから狭いスペースでも散らからない。この人、本当に料理がうまい。数年で身につく動きではない。

他のお客さんと話しているのを聞いていたら、毎日スーパーではなく市場や八百屋や魚屋に電車に乗って買い物に回り、夜の開店に合わせて昼から漬け込んだり、煮込んだりしている。昔はみんな忙しくああしていた。よくみると、食材の入ったパックや箱が、近所のスーパーと違う。いろいろな店を買い回った食材も昔の味の秘密の一つかもしれない。

瓶ビールを頼むとお盆に、サッポロ黒ラベルの中瓶、コップ、鉄の昔の普通の栓抜きをのせて持ってきて、目の前で栓を抜き、栓をエプロンのポケットにしまう。ビールが新鮮で、うまみが増す。いつ飲んでも絶妙に冷えている。ああいうのは、お父さんか、お母さんか、先輩か、恋人か、きっと誰かの影響がある。昔の人は冷蔵庫で冷やしたサッポロ黒ラベルの栓を抜いたその瞬間がビールの一番うまい時だと信じ、それは間違っていない。

熱燗は電子レンジでいい。熱燗を湯につけるのにこだわる店もあるが、普通の人はそういった違いがわからない。お湯につけると時間がかかってなかなかおかわりが出てこない。

昔の味をつまみに、徳利とおちょこで熱燗を飲むと本当にうまい。うまいから満足して酒量も減る。無駄な酒を飲まずに家に帰って寝る。コップ酒ではダメで、そういうのを味わうことのできる店はやはり店のつくりからして違う。全体で雰囲気で飲む。

料理自慢のスナックや小料理屋のママは多いが、あの味は出せない。一目瞭然で手抜きしている。レタスがしおれ、十分に水切りしない。相手を思いやるよりも損得を考えている。

昔の味は今に受け継がれていない。もうすぐ食べられなくなる。もっと通わなければ店がなくなってしまう。(山田)

 

 

| chat-miaou | 01:01 |
カレーライス

 

カレーを嫌いな人はいない、とよく聞くが私は嫌いだ。若い頃は好きだったが、酒を飲むようになってから嫌いになった。

酒を飲んだ後にカレーを食って寝ると翌日、体ににおいが残って耐えられない。二日酔いにあのにおいは我慢できず、カレーを食べることが減っていった。

歳を取って消化力が落ちると昼食ったカレーのにおいが夜まで胃からこみあげてくる。胃がもたれる。胸焼けする。神保町のキッチン南海の熱くて黒いカレーが無性に食いたくなることがあるが、一日胃がもたれるのを覚悟して食べるから、やはりカレーが好きなのかもしれない。

カレーが食いたくなったが神保町まで上京する気にもなれず、まだ行ったことのない喫茶店でカレーを頼んだ。

とてもまずいカレーで一日が台無しになった。

セットのスープも電子レンジでチンしたもので、しかもぬるい。サラダもキャベツのみで普通の市販のドレッシングがかかっている。カレーは完全にレトルトで、もしかしたらこれも電子レンジであたためたのかもしれない。キッチンからはひっきりなしに電子レンジのチンッという音が聞こえてくる。

とにかく、どこからも湯気がない。神保町のキッチン南海の黒いカレーからは勢いよく湯気がたちのぼり、あれがうまさの秘密になっている。

こんなカレーだったら家で食った方が100倍うまい。家で電子レンジであたためた方がうまい。まったくやる気が感じられない。100円のレトルトカレーだって熱くして食えば十分うまい。

サラダも食べる気になれない。ぬるいスープにももう口をつけたくない。口にするほど体に悪い。カレーも一番安いレトルトカレーで、ぬるくて食べる気にならない。800円もする。

残して帰ろうかな、と思うが店の人に悪い。

獅子文六の『私の食べ歩き』を読んだ直後だったので、うまいものを食いたい気分になっていた。

こんなまずいカレーを残さず食べて一日胃がもたれるなんてバカらしい。こんなものを食う意味はなく、残して帰るべきではないのか、獅子文六先生ならきっとそうする、と考えて、ムカムカしていると、隣の席の4歳ぐらいの男の子がお母さんとカレーを食べていて、

「カレーライスおいしいね?」とお母さんに話し掛けた。

私は我にかえって反省し、スープもサラダも残すことなく、「ごちそうさまでした」と言って店を出た。(山田)

 

| chat-miaou | 01:01 |
おでんに熱燗

 

獅子文六の『私の食べ歩き』を読んでいたらおでんが食いたくなった。カラシをぬった豆腐が食いたい。獅子文六によると、豆腐のうまさを知らない奴は駄目だ。

名文は人を動かす。

久しぶりのおでんはうまかった。前回行った時は気付かなかったが、この店のおでんはかなりうまい。やはり、何事にもモチベーションが大事だ。やる気が高いと、それまでみていた世の中がバラ色にかわる。

熱燗、

五個セットのおでんは500円だが、熱いのをさめないまま食べたいし、おでんを前にモチベーションがさらに高まりアドレナリンが出てきたから、セットはやめて単品で、大根、豆腐、じゃがいもを頼む。思い描いていたままにカラシをたっぷり塗って食う。小さな夢がかなってかなりうまい。体がどんどんあったまっていく。

黒ラベル、水ナス、

この店、時間が止まっている。店の人も、店内も、メニューも1980年代とかわらない。

明日も来よう、と自然に思う。

冷酒、

やはりおでんには熱燗が合う。明日は熱燗一本でいく。チェイサー代わりにビールを飲もう。

はんぺんと生揚げで〆る。

お通しのつぶ貝も熱燗に合っている。どうしてこういう居酒屋が減っていってしまったのか。80年代まではこういう店がもっとあった。長く続く店では、毎晩カウンターを占領していた常連客たちが死んでいき、やっていけなくなるのだろう。

客が来なければ店は閉まる。こういう店にはつぶれてほしくない。だから私が明日も行く。

お会計は3250円。たまに満足したものを食うと、もう余計なものを食いたくないからまっすぐ帰りたくなり、一軒で済む。

例えば荒木町の寿司金のマグロを食うと、どこにも寄らずまっすぐ帰りたくなる。舌を汚したくない気になる。うまいカキフライやとんかつやてんぷらを腹いっぱい食った後もまっすぐ家に帰ってとっとと寝るのが気持ちいい。

帰り際、営業時間を聞くと5時から11時、日曜休み、忙しくなってきた。(山田)

 

 

| chat-miaou | 01:01 |
『私の食べ歩き』『食味歳時記』

 

これから自殺する100人の人が本屋に行けば、そのうちの何人かは自殺するのをやめる。

日本人は頭がいいから、本屋へ行けば、何かしらの情報が目に飛び込んでくる。無意識に救いの言葉を求めている自殺者の目に言葉や絵が飛び込んでくる。

それぞれの本が「買ってくれー」「読んでくれー」と主張している。本の表紙につかわれる絵も、中の文章とつながっている。担当編集者や著者のセンスに合うデザインになっているから実は表紙で本を選んでも当たることが多い。かっこいい音楽は必ずかっこいいデザインのCDになる。

もう、やり残したことはないなあ、と思うのはうつ病らしい。

もう、やり残したことはないなあ、と思いながら、本屋を隅から隅まで一周していると、獅子文六の『私の食べ歩き』が目に飛び込んできて、なんとなく手に取った。

「若い時は、相手なしに飲んでも意味はなかったが。今は誰もいない方がいい。もう、たくさんは飲めないのだからジャマされたくない」

一緒だ、と思ったが、老眼で本を読む気にもなれずそのまま家に帰り、しかし、やっぱりもっと読みたくなって買いに戻り一気に読んだ。

医者に肉食を止められ、年を取って、ひじきや油揚げや菜っ葉がおいしいのも一緒だ。

楽しく読み終え、いつものように破り捨てた。

そこからが大変で、おでんが止まらない。おでんが食いたくて食いたくてたまらない。まだやり残したことがあった。おでんを飽きるまで食いたい。腹いっぱいおでんを食いたい。

獅子文六のいう通り、カラシをたっぷり塗った焼き豆腐を食い、熱燗を飲む。

居酒屋から家に帰って『私の食べ歩き』を読み返して確認したいのだが、捨ててしまってないから、また買いに行く。読み終わって破り捨てた本をまた買うということは少ない。本当に読みたいかどうか、手元にあってはわからない。もう一度お金を出して読み終わったばかりの本を買うなんてもったいないのだが、それほど読みたい本かどうか、一度捨ててみないとわからない。

何度読み返してもおでんが食いたくなる。朝からおでんのことばかり考えて、早く夕方になっておでんが食いたい。

『食味歳時記』も面白い。

新刊本を買った方がいい。古本と違って文字組みが非常に読みやすく編集しなおされている。

他にも獅子文六の食べ物に関する本はあるが、それらを厳選したものが『私の食べ歩き』『食味歳時記』で読めるので、2冊でいい。

二本の熱燗で得る心の静まりを知ればまだまだ死ぬのは早い。おでんに飽きたらソラマメもある。

熱燗を飲む前にビールで口を冷やす。熱燗がうまくてたまらない。そば屋で一本つけさせても非常にうまい。

こんなに酒の飲み方が合う文章ははじめてだ。

酒の飲み方がかわってきた。

ふかしたての里芋を出す店をみつけた。塩をつけて湯気を吐き出しながら食い、よく冷えた生酒を飲む。生きててよかった。(山田)

 

 

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岸田秀入門 4

 

9●『続ものぐさ精神分析』

犬畜生は生きるための価値を求めず、ただ生きているだけだが、人間は生きているだけでは満足できず、おのれの存在の意味を問い、その価値を求める、したがって、人間は犬畜生より高等であると説く人がいるが、わたしに言わせれば、これこそ人間のたわけた思いあがりであって、人間が、犬畜生と違って、生きるための価値を求めるのは、その自然的生命を十全に生きておらず、したがって、生きることにむなしさを感じざるを得ず、そのむなしさから逃れようとして、そのような価値にすがりつこうとしているのである。つまり、生きるための価値を求めるのは、むなしさに耐えられない人間の弱さゆえであり、卑怯なふるまいであって、人間が犬畜生より高等である理由になるどころか、逆に、劣等であることを証明するものである。

10●『ものぐさ精神分析』

父の虐待は実は虐待ではなく、愛情の表現であり、わたしは父親に愛されているのだと無理に思い込む。そう思い込むことによって彼女は、その不幸な幼児期、少女期をかろうじて耐えてきたのであった。この正当化によって彼女の人格(対人知覚の構造と言ってもいいが)に盲点が生じた。第三者の目には明らかな男の残酷さが、彼女の眼には愛情と映るのである。しかし、それは正当化による自己欺瞞であるから、それが愛情であるということに、彼女は心の底から自信はもてない。自信をもてないゆえに、それが愛情であることを確証しなければならない。だから彼女は、残酷な男と出会うと、彼の愛情を確認したいという意識的な強迫的欲望にかり立てられ、無抵抗に引き寄せられるのである。彼の愛情を確認することは、自分が父親に愛されていたということを確認することであった。彼女は何度裏切られても、少なくとも一人の男において、一見残酷さと見えるその態度が実は残酷さではなく愛情であるという証拠を得たいのであった。

しかし、残酷さはあくまで残酷さなのである。このことを認め、残酷な男に繰り返しひっかかるその反復強迫をやめるようになるためには、彼女は、父親に愛されていなかったという、彼女にとっては認めがたい苦痛な事実を認めなければならない。

11●『続ものぐさ精神分析』

幼いとき、弟をいじめ、虐待し、当人はその経験を、弟のためを思ってきびしい鍛錬を施してやったのだと正当化したとする。このような人は、大学の運動部へはいって上級生になったときとか、会社へはいって何らかの権力をもつ地位についたときに、下級生や部下を虐待するようになる。そして、その虐待を虐待とは思わず、下級生や部下のためにきたえてやっているつもりである。彼が下級生や部下にやさしく接することができないのは、もしそうすれば、なぜかつて幼いとき、弟にやさしく接しなかったのかという疑問にぶつかるからである。下級生や部下にやさしく接して、もし事がうまく運べば、かつて弟にもこのようにやさしく接すべきだったのではないかという苦しい疑問にぶつかるからである。そうなれば、弟に対するかつての態度は実は虐待だったことを認めざるを得なくなり、そのことに関する罪と責任を引き受けざるを得なくなるからである。したがって、その罪と責任から逃れるためには、彼はいつまでも、自分の勢力下にある弱い者に対して虐待をつづけ、その虐待を相手のための何らかの名目で正当化し、そのやり方によって事がうまく運ぶことを是が非でも証明しなければならない。逆に言えば、彼がそのような虐待をやめることができるようになるためには、かつての虐待を虐待と認め、その罪と責任を引き受けなければならない。

12●『嫉妬の時代』

子どもは行動規範を親から受けつぐわけですが、親の規範に矛盾があると、その矛盾が子どもの自我に混乱と葛藤をもち込むのです。

たとえば、親が口では「人間はまじめに生きなければならない」と説き、子どもに厳格な規範を強いておきながら、親自身は家庭を省みず浮気をしたりして勝手に遊んでいるといった場合、子どもは、親が口で強制してくる規範と、親自身が実行している規範との矛盾する二つの規範にさらされます。ほとんど自動的に身につくのは、もちろんあとのほうの規範です。

13●『嫉妬の時代』

たとえば、父親が妻子を捨てて女のもとに走り、父親に見捨てられた母子家庭の中でつらい思いをしながら育った男は、意識的には、「自分はあのような父親になるまい。親子がずっと仲良く暮らす理想の家庭を築くんだ」と決心しています。実際にまじめな結婚をし、妻子のために献身的に尽すやさしい父親を続けていながら、ある日突然、女をつくって妻子を捨てるということをやらかすことがよくあるのです。

それまで親子揃って仕合せそうにやっていたのに、何が不満でそんなことをするのかと、当人以外には不可解ですが、いや当人にさえ不可解かもしれませんが、彼としては、言ってみれば、家族揃って仲良く暮らしている生活には実感がないのです。

それは「理想の家庭」という観念にもとづいて組み立てられた生活であって、そのなかで彼は「おれは生きている」という感じがしないのです。

父親の彼の愛情に包まれて仕合せそうな息子は、彼にはどこかよそよそしく、「おれの息子だ」という感じがしないのです。ところが今、父親の彼に見捨てられ、昔の彼と同じように父親なしでつらい思いをして日々を過ごしているであろう息子は、彼には本当に心から「おれの息子だ」と感じられるのです。

子に対する親の愛情は、親が自我の延長を子のうちに見ることに基づいていますが、息子を見捨ててはじめて彼は自我の延長を息子のうちに見たのです。

息子を見捨てておいて、何を今さらたわけたことを言っているのかと思われるでしょうが、彼が「かつておれが息子に注いでいた愛情は、無理してつくったニセモノだった。今こそ本当に心の底から息子に愛情を感じる」と言ったとしても、嘘いつわりはないでしょう。同様に彼は、夫の彼に見捨てられて一人苦労しながら息子を育てている妻に、彼の母親の面影を見るでしょう。

そして彼は彼の父親と同じように、妻子を捨てて女と暮らしています。彼になじみのある世界が再現したのです。失われていた時が見出されたのです。彼がこの世界から、妻子のもとへ戻ることはたぶんないでしょう。

 

| chat-miaou | 01:01 |
岸田秀入門 3

 

1●『ものぐさ精神分析』

幻想我と現実我の葛藤の最終的解決法は自殺しかないが、一時的解決法、気休め的解決方法はいろいろとある。酒を呑むのも一つの方法である。酔っ払えば、現実我は忘れられてナルチシズムが高揚し、全能感が刺激されて何でもできるような気になり、自己と他者との境界がぼやけて、世界は無限に開けてき、みんな自分の仲間と感じられてくる。しかし、酔いがさめるまでのことである。宿酔いの苦々しさは、生理的要因もあろうが、主として、せっかく追っ払った現実我がまた図々しく立ち戻っているのを見た苦々しさではないかと思う。

2●『ものぐさ精神分析』

テレビの画面では、連日連夜、幻想我の代表選手である仮面ライダーやミラーマン、あるいは水戸黄門や銭形平次が、善玉(現実我)をみじめな状態に突き落し、不当に虐待している悪玉(現実原則)をやっつけているが、十年一日のごとき同工異曲の物語が決して飽きられることがない。人びとはこれほどまでに、幻想我の実現をはばんでいる現実の世界を恨んでいるのである。易者が「あなには埋もれた才能があります」と言えば、たいてい誰の場合でも当たるそうだが、われわれは、当然花を咲かせるべきなのにまだ咲かせていないナルチシズムを心に秘めている。

3●『不惑の雑考』

劣等感は人間につきものみたいなものであるから、劣等感から決定的に解放される方法はないであろう。もしただ一つ、その方法があるとすれば、自分より優れている人たちを自分とは関係のない別の世界の人たちと見なして、あきらめることであろう。昔の庶民は貴族に対して別に劣等感はもっていなかったであろう。ところが、現代は平等主義の時代で、タテマエとしてはすべての人が平等に何にでもなれることになっているから、現代人は昔の人より劣等感に苦しんでいるのであろう。別に平等主義がいけないとは言わないが、人びとの劣等感を大いに刺激し、増大させたことは間違いない。また、おとなと青年をくらべてみると、青年は将来に希望をもち、いろいろな者になれる可能性をまだあきらめていないことが多いであろうから、おとなよりも青年のほうが劣等感が一般に強いであろう。

しかし、すべてにあきらめてしまって劣等感をもたなくなったら人間はやることがなくなるのではなかろうか。嫉妬は人間のもっとも強い感情であり、劣等感補償は人間行動の最大の動機である。人が言ったりしたりしていることの大半は、むずかしい複雑なことを考えなくても、嫉妬と劣等感補償が動機ではないかという仮説を立てれば明快に説明がつく。

4●『嫉妬の時代』

人間は現実には決して平等ではありません。それなのに、たとえばすべての人間は能力において平等である、なんてことが建前になると、能力の劣るものにとって世界は地獄になります。

5●『嫉妬の時代』

能力はみんな平等ということになっているので、凡人が本来ならもたなくてもいい挫折感をもち、天才に嫉妬するんです。天才に嫉妬した凡人には、嫉妬の地獄からの出口はありません。平等主義が、人びとの嫉妬心を猛り狂わせたというのは事実です。落ちこぼれもつくったし。

6●『嫉妬の時代』

生徒がさまざまな可能性を潜在させていることは間違いないですが、すべての可能性を無限にもっているわけではありませんし、いくら教師がいい教育をしようが、生徒がいくらがんばろうが、存在しない可能性が伸びるはずはありません。

この平等主義の嘘は俗耳に入りやすい美辞麗句で飾られていますが、実際には、能力の劣る生徒に地獄の苦しみを味わわせています。しかし、本来的に、「能力の劣る」生徒というのはいないことになっていますから、彼らの地獄の苦しみは無視されてしまいます。彼らの苦しみに配慮を払うためには、平等主義の嘘を崩さなければならないからです。

7●『唯幻論物語』

もちろん、唯幻論を理論的に批判する人はいて、そういう人にはわたしも理論的に反駁しているが、それとは別に、唯幻論が感情的に気に喰わない人もけっこういるようである。大学に勤めていたとき、ある別の大学の見知らぬ学生が研究室に血相変えて怒鳴り込んできて、数人のゼミ生がいる前で「すべてが幻想だなんていい加減なことを言うな、撤回しろ、この本の代金を返してくれ」とわたしに『ものぐさ精神分析』を突き返してきたことがあった。どこかに書いたが、「すべてが幻想なら、これも幻想で痛くないだろう」と、学生に殴られたことがある。見知らぬ読者から嘘つきだとか何とか罵詈雑言を連ねた手紙がときどきくる。インターネットの掲示板とかに、わけのわからないわたしの悪口を飽きもせず書き込み続ける人がいる。電話がかかってきて「あんなこと書いていいのか」と脅されたこともある。しかしもちろん、好意的な読者も多い。

8●『続ものぐさ精神分析』

私の講義を受講している学生からときどき、「そのような考え方をしてむなしくないのか」と質問されることがある。わたしの考えによれば、人類の歴史は幻想をもってはじまり、社会は幻想で成り立っており、恋愛も幻想なら、異性の性的魅力も幻想、親子の愛情も幻想、何でもかんでもみんな幻想というわけで、わたしの講義を聞いていると、一部の学生は、世の中が何となくむなしくなってき、この先生は本気でそう思っているのだろうか、もしそうなら、何のために生きているのだろうか、まるで人生にはそのために生きるに値する価値などどこにもないみたいではないかと疑問に思うらしい。

まったくその通り、わたしは本気でそう思っている。まさかふざけて、幻想だ、幻想だとわめいているわけではない。そして、そのために生きるに値する価値なんかどこにもないと思っている。そのように答えると、「それではなぜ生きているのか、なぜ、すぐ死なないのか」と重ねて質問してきた学生がいたが、わたしにはこの質問は意外であった。

こういう質問が出る前提として、人間が生きているのはそのために生きるに値する何らかの価値のためであって、そのような価値がないなら死んだほうがましだという考え方があると思われる。わたしは、このような考え方こそがおかしいと思うのである。いや、ただおかしいだけでなく、きわめてはた迷惑な考え方だと思う。

 

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岸田秀入門 2

 

3●『幻想に生きる親子たち』

他人の人格構造ないし欲望構造を自分の望むように変えたいというのは、昔々のその昔の太古より無限に多くの人々が夢見たことである。実際、人生において他人を自分の思い通りに操作できれば、これほど都合のいいうまい話はほかにないからである。

しかし、そのような願望はまれにしか実現しなかった。他人を是が非でも自分の願望に従わせようとすれば、まかり間違えば彼を殺してしまうか、彼に殺されるか、絶交になるか、恨まれるか、あるいは少なくとも仲がまずくなるという結末になるのがほとんどであった。ごくまれにこの願望が実現することもあるが、それはたまたま自分の願望に添うような形に他人の人格構造ないし欲望構造が以前からすでに形成されていたという偶然の幸運によるのであって、自分の企てや努力の成果ではない。

4●『ものぐさ精神分析』

「自分は人のために献身的に尽くしては裏切られ、それでも人を信じたい気持ちを捨てることができず、懲りずにまた人のために尽くしては裏切られる」と言ってぼやく人がいる。当人は、恩知らずの人の世の薄情さとエゴイズムを嘆いているが、エゴイストなのは当人であって、彼は、人に対して一段優位に立てる恩人という立場で臨み、人を利用し、支配したい欲望が強過ぎるのである。繰り返し「裏切られる」のは、世の人々が薄情なためではなく、おそらく彼に非がある。彼が失敗しても懲りずに「捨てることができない」のは、「人を信じたい気持」ではなく、「人を利用し、支配したい気持」であろう。なぜ「捨てることができない」のかと言えば、それはその気持をありのまま認識せず、「人を信じたい気持」という立派なものにすり替えているからである。つまり、自己批判を、本来向けるべき「人を利用し、支配したい気持」のほうに向けず、的外れなところに向けているので、デキモノの薬をデキモノの上にぬらず、健康な皮膚の上にぬりたくっているようなもので、何の効果もないわけである。人が彼を「裏切る」のは、彼の支配欲に耐えられなくなって、逃げ出すのである。

5●『ものぐさ精神分析』

人間は自分を正当化せずにはいられない存在である。人間は自己正当化によってかろうじて自己の存在を支えられており、自己正当化が崩されれば、自己の存在そのものが崩れるのである。したがって、相手に対して不当な要求をもち出す場合、不当な要求を不当と知ってもち出すということは、なかなかできるものではない。まずそれを正当化する必要がある。

6●『ものぐさ精神分析』

易者が「あなたには埋れた才能があります」と言えば、たいてい誰の場合でも当たるそうだが、われわれは、当然花を咲かせるべきなのにまだ咲かせていないナルチシズムを心に秘めている。

7●『嫉妬の時代』

人間というものは、どれほど自分を冷静に客観的に見ようと努力しても、自分が不当であるという結論になれば、自我が崩れるし、自我が崩れれば生きてゆけませんから、自己正当化をやめるわけにはゆきません。

8●『ものぐさ精神分析』

若い頃、革命を志し、今は廃品回収業者となった男が自分の姿を自嘲している。彼がその自嘲によって言いたいことは、廃品回収業は世を忍ぶ仮りの姿なのだ、おれは本当は革命家なのだ、ということである。もし彼が、依然として革命を信じ、本当に一時の便法として廃品回収業をやっているのであれば自嘲は必要でない。本来は廃品回収業ではないつもりだから、どんな職業の人も当然もっている仕事に対する誇りと誠実さを彼は欠いており、したがって、その仕事は必然的に無責任ないいかげんなものとなる。さらに彼は廃品回収業としても失格であるくせに、他の廃品回収業を軽蔑し、自分が彼らより一段高級な人間であるかのような錯覚をもつ。その錯覚を支えているのが自嘲ないし自己嫌悪である。

9●『ものぐさ精神分析』

人の気持ちに無理解で無感覚な者ほど、自分は人の気持ちがわかり過ぎるほどよくわかり、そのためについ、要求される前に自分からゆずってしまい、無理してゆずったということすらわかってもらえなくて馬鹿を見るなどと思っており、思いやりのある者とは、人の気持というものがいかに理解しがたいかを知っており、自分がつい気づかずにどれほど人の気持ちを傷つけているかについてつねづね空恐ろしい思いをしている者である。

けちでしみったれた人とは、きわめてけちでしみったれた水準に普通の一般的基準をおく人のことであり、その「一般基準」から判定すれば、彼自身は必然的に「気前が好過ぎる人間」となるのである。そして、自分がどの水準を一般的基準とし、どの視点に立っているかということは、人間のもっとも自覚しにくいことの一つである。

平静な心で自分を反省してみて、自分はこういう人間だと思えるとき、他人の眼にはちょうどその正反対が映っていると考えて間違いはない。

 

| chat-miaou | 01:01 |
岸田秀入門 1

 

岸田秀を読んでいると精神分析という学問をつくったフロイトを読んでみたくなるが、難しそうなので漫画で読むフロイトを探すとけっこうあって、かなり面白かった。私も入門書を何冊か編集したことがあるが、頭のいいライターがちゃんと本をたくさん読んで、そのなかから一番面白くてわかりやすいエピソードを必ず入れる。一番面白いエピソードが入門書にはちゃんと書いてあるから、入門書を読んで面白くなかったらその世界を細かく読んでいっても面白くない。子供が入門書や児童書を読んでその世界に興味をもち、将来学者になるということがよくある。

フロイトをちゃんと読んだ人がその面白さを漫画にしてくれているから、フロイトの一番面白いところはきちんと漫画にも描かれているはずだ。

男の子が馬を怖がる。男の子はお母さんのことが大好きで、だからライバルであるお父さんを怖がり、それでもお父さんのこともやっぱり好きで、お父さんの代わりに馬を怖がる。幼い男の子はお母さんに恋愛感情を抱き、幼い女の子はお父さんに恋愛感情を抱く。精神分析医が男の子に、「君はお母さんのことが大好きだから、お父さんのことを怖がるのだけれど、お父さんは君のその気持ちを知っているけれど、君を怖がらせるようなことをしないよ」と説明してあげたら、男の子は馬を怖がらなくなった。

原因がわかると反応が変わる。抑圧して隠して、自分でも忘れてしまった気持ちに自分で気付き、その気持ちに整理がつくと症状がおさまる。

女の人が原因不明の足の痛みを訴えた。話を聞いていくと、彼女は姉の夫に恋愛感情をもっていて、足の痛みをつくり出すことによって自分を罰し、恋愛感情を回避していると自覚した。原因を自覚し、自分自身の中で心の整理ができると原因不明だった足の痛みがすっかり消えた。

ひたすら患者に話をさせ、患者の話をさえぎらずに根気よく聞き続けていくと、原因となる話が出てくるという治療違法だった。

岸田秀の本を読んでいると自分が精神分析されている気分になり、スッとする。多くの人が岸田秀の本を読んで救われたという。たくさんの症例をわかりやすく面白く解説し、自分に合った症例を読んでいくうちに素直に納得し、気持ちが楽になる。

自殺しないで済む人もいるかもしれない。犯罪をしないで済んだ人もいたかもしれない。

自分が虫けら以下の人間なのだ、と自分から認めることができると、少し楽に生きていける。強くなったような気分で相手にのぞめる。

呼吸が苦しいほど気が滅入ると岸田秀の本を読む。このままでは何か事件を起こしてしまいそうな気がする。読むより書き写す方が頭に入る。岸田秀の文章をかたっぱしからひたすら書き写していくと心が楽になる。病院に行かないで済む。(山田)

 

1●『ふき寄せ雑文集』

卑屈な性格の人というのは卑屈さを「謙虚さ」「人の好さ」「寛大さ」「献身」「自己犠牲」「人間信頼」などと正当化しており、そこに高い価値を付与し、卑屈さの招くマイナスが見えていない人である。彼はその卑屈さのために相手に馬鹿にされ、軽んじられて多大の損害を蒙っても、おのれの卑屈さのゆえとは思わず、相手が卑劣にも彼の「寛大さ」につけあがってきた、彼の「人間信頼」につけこんできたなどと思うであろう。したがって、人びとの眼には、卑屈さのゆえに大損しているとしか見えない痛い経験を何度重ねても、彼の卑屈さは改まらない。自分がそういう目に遭わなければならない責任は相手の「卑劣さ」にあり、態度を改めるべきなのは相手であって、自分ではないと思うからである。卑屈な人もその点では実に傲慢なのである。卑屈さを正当化している彼は、そういうわけで、卑屈な形でしか人びとと関係を結ぶことができず、そのためには、彼は「状況に不釣合に」いつも屈服し、あたかも固定的、実体的な「卑屈な」性格をもっているかのように見えるのである。

2●『不惑の雑考』

いくら「図々しい奴」だって、通る可能性があると思うから、「図々しい」要求をもち出すのであって、断わられるのがわかっていてもち出すわけはない。つまり、要求が通る、あるいは少なくとも、ひょっとして通るかもしれないと思い込ませるところがあるのである(こういう場合、自分のそういうところに当人は無自覚であるのが普通である)。しかし、他方では、要求の「図々しさ」に腹を立てており、「応じてやるものか」と決心したりする。このことからわかるように、相手の要求に対して承諾するなら承諾する、拒否するなら拒否する一貫した態度が取れず、相手の要求を受け容れようとする気持ちと、拒否したい気持ちが葛藤しているのである。

人に「図々しい奴」と思われがちな人というのは、「図々しい」要求をする人というより、相手の寛容さの程度を誤認する人である。きわめて単純化して言えば、対人態度に葛藤のある人と、対人知覚に欠落のある人とがぶつかったとき、前者が後者を「図々しい奴」だと見なして嫌うのである(後者は前者を「期待させて裏切る当てにならない奴」だと見るであろう)。

 

| chat-miaou | 01:01 |
頼むから死んでくれ


 

嫌な奴は本当に存在している。どうしようもない。死ぬまで嫌な奴のままでいる。

朝起きてテレビをみながらごはんを食べていると後ろからいきなり、「このデブ! 目障りなんだよ!」と叫びながら思いっきり右フックで殴りかかってくる。いきなりだからそのまま床に倒れ込んで目を回して呆然としているとスリッパで顔面を踏みつけてくる。本当にこんな奴がこの世に存在している。書くことはできないが、もっとひどいものも何度も確かにこの目でみた。苦しみ、迷惑している人が今もたくさんいる。そして苦しませるのがそいつの目的でもあるのだから悔しい。サディストは人が苦しんだり、悔しがっている姿をみると性的に興奮するからやめられない。目つきが狂っている。本当に気持ちの悪い嫌な奴だ。人はこれほど人を嫌うことができる。たった一人、世界で一番嫌いだと断言できる。これほど嫌な奴はみたことがない。思い出すだけで具合が悪くなる。名前を聞くだけで嫌な気分になる。本当に不快で、何もできなくなるから顔を思い出すことはできない。もしこんな奴が家族にいたら家族は普通に生きていくことなんてできない。首が痛くて、耳鳴りがして、「勉強がんばろう」とか「週末の試合にそなえて練習をがんばろう」などという考え方ができなくなる。家に帰りたくない。今夜交通事故にあって死んでくれないか、誰かあいつを殺してくれないか、自分で殺すと捕まってしまうから殺すわけにはいかない、正当防衛に持ち込めないだろうか、一日中そんなことばかり考えて何かに集中することができない。あんな奴がいたら勉強したくてもできない。文字が読めず、何が書いてあるのかわからない。ストレスが頭のかゆみとなってあらわれる。そいつのことを思い出すだけで猛烈なかゆみに襲われ、病院で薬を出される。虐待を受けて勉強ができる子はいない。警戒しながら勉強に集中するなんてできるわけない。よく眠れないし、夢にまで出て来て、殴り返したり蹴飛ばし返している姿勢で目が覚める。今は暴力、強迫、ストーキングは完全な犯罪として認知されているのだから、警察か精神病院に行ってもらう。そしてずっと刑務所から出てこないで欲しい。

出会いは重要だ。偶然に出会い、関わってしまった人はみな嫌な思いをする。人の人生の邪魔ばかりする。人の嫌がることしかしない。

出会わなければ少しはましな人生になっていた。だからこそ、残り少ない人生のために一刻も早く絶縁しなければならない。勇気をふりしぼって、あらゆる手段を尽くしてがんばらなければ、たった一度しかない人生に最後までつきまとわられたまま終わってしまう。殴られたって、踏みつけられたって、暴れて大声で怒鳴られたって、最後は刺されるかもしれないが、縁が切れるのだったら何もいらない。

誰にも邪魔されず、ひっそりと穏やかに暮らしたい。

父が入院中に病室で金を盗まれた。父は病院でも金をもっていないと落ち着かず、ベット横の引き出し内の鍵付きの箱にいつも5万円入れていた。

ある朝、私が調べると4万円になっていた。病院に文句をいうわけにはいかない。病院からの入院案内には病院では窃盗事件が起きるので飲み物代、テレビ代以外の現金は持ち込まないように書かれている。

箱には鍵がついていて、その鍵は手首にゴムの輪っかではめることができるが、父は箱に鍵をつけたまま、盗む奴なんていない、そんなことをしたらすぐに気づく、と自信をもっていた。私の勘違いということもあるから、今度は財布に「630日、午前114万円」というメモを入れて、父にも確認させて、箱に財布を入れた。引き出しが勝手に開けられないように、引き出しの上の段から突き出るテーブルにものをたくさん置いて、引き出しがすぐには開けられないようにしておいたが、翌日、テーブルの上は片づけられ、お金は3万円に減っていて、父も驚いたような顔をしたが納得したからナースステーションに文句をいいに行ったら「そんなことをする人はうちにはいません!」と強く怒られ、二度と大金を病室に持ち込まないように注意された。父の個室には看護師と清掃員が一日に何度も出入りする。他の入院患者が忍び込むこともできるし、外部からでも出入りはできる。防犯カメラがないから犯人はわからない。

どうしても金を手元においておきたい父は残高5万円のキャッシュカードを財布に入れることにして、鍵を手首にはめた。

相手は相当しつこい。これまで置いておいたのは1万円札ばかりだから私が管理する以前にいくら盗まれたのかわからない。1万円なんてそう簡単には稼げないが、認知症の父の病室から盗めば1分もかからない。窃盗は捕まるまでやめられない。捕まってもやめられない。

病院の風呂に入っている時、父は手首から鍵を外して脱衣かごに置き、またやっぱり盗まれたが、さすがにキャッシュカードが持ち出されることはなかった。鍵がなくなったことを知ってやっと看護師たちも疑いをもった。何度盗まれてもまだ金を欲しがる父も相当嫌な奴だ。

本当にしつこいストーカーがいて、暴力性の発作をもった人なので、一人暮らしの私は身の危険を感じ、携帯に唯一電話番号を登録している近所の居酒屋のマスターに、もし何かあったら犯人はあいつだ、警察が聞きにきたらよろしく、と一応伝えておいた。

マスターに伝えて1週間後、近所で偶然40代の男が殺され、マスターがすぐに「無事!?」と電話してきた。(山田)

 

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