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家でならある

 

小学生の時、大便をもらした話をしていると、スナックのママが怒った顔でそういう話はやめるようにいい、厨房に去っていった。かまわず続けているとアルバイトの女の子が「男子トイレはすぐにわかるからね」と同情した。

小学校、中学校の個室トイレに入ると馬鹿にされる。私の通った学校は、休み時間に大便をしていると不良が上からホースで水をかけてきたり、思いっきりドアを蹴とばしてくるので、落ち着いてできない。中学に入ると知恵がつき、休み時間に邪魔されるより最初からみんなの前で公言してしまう。授業中に腹が痛いといってトイレに行けば、一人のんびりと用が足せる。水をかけられながらするより笑われた方がずっといい。

一緒に飲んでいた長沢に、もらしたことがあるか聞くと、恥ずかしそうに、

「ん? 学校ではないけど、家でならある…」

衝撃発言に一同ギョッとしてグラスをもつ手が止まった。

「自分の家で!」「うん。朝、学校に行く前にもれた…」

長沢の話には考えさせられることが多い。深刻な面持ちでつらい過去を話してくれた長沢だが、なぜ学校に行く前に? 自分の家で?

いつのまにかママも厨房から戻ってきて、心配そうに長沢の告白の続きに耳を傾けている。水割りを飲み込む音が聞こえた。

「なんで家でもらすんだよ? すればいいじゃないか」「ん? 親父のトイレが長くて我慢できなかった。外でしようと思って走って場所を探したけど、みつからなかった」

なるほど、近所でそんな姿をみられるぐらいなら家でもらす。風呂でする訳にもいかない。

水割りを噴き出し、みなで笑いが止まらないでいると長沢が本気で怒り出し、ママが厨房に去っていった。(山田)

 

 

 

| chat-miaou | 01:01 |
競輪ネットワーク

 

 

立川競輪場に競輪グランプリをみに行った時だった。

長沢が当時スター選手だった吉岡稔真から30万円も車券を買うというので、私も他の選手から10万円買った。長沢と私は同じレースの違う選手から買うことが多かった。どちらかが勝って、その金で飲みに行けばいい、という考えだった。

二人で40万円も入れたレースは迫力が違った。欲望によって集中力が増し、9人の選手の動きが1人1人はっきりみえた。

雨が降る中、後閑信一が我々の吉岡の隣に近づいてきてなぜか頭突きした。

そしたらなんと、吉岡はツルリと落車してしまった。

数万人の観衆が「ああ!」と声をもらし、私も思わず「ああ!」と声を出してしまったが、長沢だけは青ざめた顔で「30万!」とか「なんてことしやがるんだ…」とかいつまでも文句をいい、それから数か月は競輪場で後閑をみる度に「あいつのせいで30万が…」とぶつぶつ文句をいいながら後閑をにらみつけていた。

二人で福島県のいわき平競輪場へ行った時のことだった。

向うから「あれー?」と懐かしそうにいいながら変なおじさんが長沢に近づいてきた。
長沢はおじさんの顔を指さし、懐かしそうに「ああっ!」と驚いた。

「今日は荒れないねえ」「荒れませんねえ」と並んで競輪新聞を開いて仲良く情報交換をはじめ、私は長沢のネットワークの広さに感心した。

おじさんが私に午前中のレースの感想を長々と語りはじめた。おじさんの話に相槌を打ちながら長沢の顔をうかがうと、長沢はあごに手をやり、変なおじさんの顔をじっとみつめていた。

突然、長沢が私をおいてスタンドの階段を駆け上がった。嫌な予感がして私も続いた。

「どうした! 誰だ、あいつ?」「知らねえ!」

(山田)
 

| editor | 01:01 |
長沢の賭け方

 


長沢を競輪に誘ったのは私だ。長沢は本を読んで競輪の知識をたくわえてから初めての競輪に行った。長沢の頭の中で鬼脚・井上茂徳と人間機関車・滝沢正光のイメージが広がった。

立川競輪で初めてみた井上は坊主頭の小さなおやじで、滝沢は巨漢のおっさんで、長沢はあまりのギャップに「競輪て面白ぇーな」と笑った。

初めての競輪で、長沢は豪快に1レース30万円賭けてみせた。11レース、配当のいい特別競輪の決勝戦だけを狙った。

枠番連勝がメインの発売だった頃だから狙った選手から5万円づつ総流しすると25万円か30万円かかり、ぞろ目が好きな長沢は456枠から流し、いつも30万円となった。

長沢にビギナーズラックはなかった。

4レース連続で負け、トータルの負けが120万円になった。競輪帰りの大衆酒場で熱燗を飲みながら、「競輪て当たんねーなあ」と長沢がいい、「続けていればそのうち当たる」と私はなぐさめた。

競輪をはじめて5レース目は競輪グランプリだった。長沢の狙いは56番車十文字貴信。車券を買いながら「どうせ当たんねー」と長沢がいった。

十文字はこなかったが、同枠の小橋がきて、配当は3750円、払い戻し金は1875000円になった。

払い戻し窓口でおばちゃんから分厚い札束を受け取った長沢は青い顔をして「競輪て儲かるな」と笑った。新札ではないから187万円はかなりの厚さとなる。新宿伊勢丹で服と靴を買い、銀座の福臨門で酒を飲み、残りは貯金した。

宝くじの当選確率が1000万分の1で雷にうたれる確率より低いというが、宝くじを1枚買う人なんていない。10枚買えば100万分の1になるのではないか。100枚買えば10万分の1、2等や前後賞、ジャンボくじ以外も加えれば当選確率はさらにあがる。確率にこだわるなら池袋や有楽町のよく当たる売り場で買えば、確率は一気に上がる。毎回買っていればそのうち当たる気がする。

宝くじに当たると不幸になるというが、嘘だろう。これだけいろんな種類の宝くじが登場し、毎日のように高額当選者が続出しているのに、公言する者はいない。宝くじに当選して「幸せでたまりません!」などと公言する馬鹿はいない。大金を手にしておかしくなって事件を起こした極端な数例だけが表に出て大きく報道されるからそんな嘘が広まる。全てのお金持ちと同じく、みんなこっそりと、自分だけで金をつかっている。宝くじを当てるより、雷にうたれる方が難しい。実際、宝くじに当たっている人は無数にいるが、雷に当たっている人などみたことない。

テレビ番組制作会社の正社員である長沢の職場でドリームジャンボ宝くじを11万円づつ共同購入しよう、という話が盛り上がった。

「小額購入じゃ、どうせ当たらないじゃん?」

といわれた長沢は1人でドリームジャンボ宝くじを買うことに決めた。

「宝くじの確認に行くからつきあって」

といわれて行ってみると、レジ袋に分厚い宝くじの束をぶらさげている長沢がいた。宝くじは30万円分あった。

宝くじ売り場で機械で当選確認をする。1000枚もあると時間がかかる。

「当たる気がするから1人でいると危ない」

と珍しく弱気な長沢だったが、当たらなかった。

その後も、何回か30万円分の宝くじを買ったが当たらなかった。ロト6は「マークシートを記入するのが面倒」だから買わない。配当のいいジャンボ宝くじのみで勝負した。

パチンコと麻雀は時間がかかるからやらない。何より、毎日の自分の仕事を大切にし、一生懸命だった。

今頃きっと、一人で幸運をかみしめている。(山田)
 

| chat-miaou | 01:01 |
「子供がいないからだよ」

 

 

飲み屋でみんなで飲んでいて、夜中の3時ぐらいになると、そろそろ一人で先に帰ろうという気分になる。そんな気分が続いている。

歳を取ると、世の中の変化についていけなくなっていく。生まれてから馴染んできた環境ではなくなり、生きにくくなっていく。

1970年生まれの私の場合、携帯電話とパソコンを乗り越えるのが精一杯で、スマホに挑戦する気力はない。携帯電話は29歳の時、周囲で一番遅く持った。パソコンも1999年に買って、なんとか乗り越えた。向き不向きもあるが、30歳を過ぎると気力が衰えはじめ、35歳を過ぎるとあきらめの境地がやってくる。新しいものに挑戦する気力はもうない。

音楽を聴くためにアイポッドは使ったが、途中で面倒くさくなってやめた。情報が多過ぎる。アイチューンをインストールすると、図書館でただで借りられる作家の講演CDをどんどん取り込んでいき、たまった音源を聞くプレッシャーに肩がこる。ポッドキャストもチェックすれば、それだけで24時間潰れる。みんな捨てた。

テレビをみるのもやめ、アンテナを捨てて長いこと経つ。どれもそこそこに面白いがそれほどではない。今さら人生を変えるような情報に出会うことはない。新聞も雑誌も手に取ることもない。

植木等や林家三平や渥美清の大ファンである私が楽しめる文化ではなくなった。私のセンスでは商売にならず、新しい世代が作り出す面白さにもついていけなくなった。

「何をやっても面白くない」

気力なく新宿のバーで飲んでいると、マスターの奥さんが、

「子供がいないからだよ」

とさらりと言った。

「いつまでも面白いことなんてあるわけないじゃん。子供は面白いよ」

なるほど、それが答えのような気がする。

この奥さんはいつもするどい。私が女に振られて後悔していると、「あの時、ああすればよかったなんて思うより、相性がいいなら一緒にいるだけで楽しいから、そんな風にならない。そんな風になるならどのみち別れる」とさらりと教えてくれた。

深沢七郎は弟子に聞いた。

「タンポポが何を考えているかわかるかい? 世の中すべてがタンポポになればいいと思っているんだよ」

すべての生物に増殖本能があるのだから正しい気がする。古いものから新しいものへどんどんと入れ替わり、進化していく。(山田)

 

 

| chat-miaou | 01:01 |
45歳まで
 


45歳を過ぎると、「若い」といわれるようなことがない。

鏡をみても老化が目にみえる。白髪を抜いた翌日にはもう、新しい白髪が数本生えている。

45年間浴びてきた紫外線が顔のシミとしてあらわれ、毎月のようにシミが増えていく。変なブツブツがまたできた。

45歳から60歳までの15年間でおじいさんに変身していくのだと実感する。

唇が黒くなってきて汚らしい。白髪を抜いていたらさらに髪の毛が減ってしまい、ミイラの河童みたいになってしまったので、室内でもずっと帽子をかぶっている。病院にいる父を見舞うと、「その頭、なんとかならないのか、よくないなあ」と心配されたが、どうしようもない。悲しみは募る一方だが、老化を止めることは誰にもできない。

問題は酒だ。一気に弱くなった。

翌日、二日酔いで何もできない。何も覚えていない。体が弱っているので精神も不安になり、じっとしていられない。迎え酒もしみ込みが悪く、体調回復よりも二日酔いを延長する結果になることが多い。

これまで通り10杯飲んで気持ちよく酔いたいが、量が多くて飲みきれない。実はもう3杯ぐらいが適量の体力で、そんな程度では解放感が味わえない。手っ取り早く強い酒に手を出し、記憶をなくして後悔する。廃人への道を歩んでいるのが自分でもわかる。酒も飲めないなんて、今さら何をすればいいのか。

どうしてあんなに楽しかったのだろう。毎日が楽しく、朝がくるのを待ち切れず始発電車に乗って出掛けた。天気がいいだけでいつも興奮していた。志が低いのでレベルは低いが、全てが満たされた瞬間も何度かあった。

会社をクビになった、父が震災にあい全てを失い廃人になった、最高の時間を共有してきた飲み仲間たちが続々倒れ、酒の飲めない体になった。

労働と健康は素晴らしい、親は生きているだけでありがたい。(山田)



| chat-miaou | 02:30 |
40歳まで

 


40歳までは医者に行くことはなかったが、40歳を過ぎたら病院と薬なしでは生きていけない。40過ぎても大丈夫じゃないか、と思ったこともあったが、そんなことはない。どんどん悪くなる。

40歳の健康診断で悪玉コレステロールが300近くにまで上がり、「放ってはおけない」と治療された。私はその頃、長い禁酒をしていたので原因は酒ではない。病院に通ううち、長年の飲酒による肝臓の疲弊とアイスクリームの食べ過ぎということになった。アイスクリームは本当だが、肝臓の疲弊は本当かどうかわからない。単純に老化がはじまった。禁酒をすると甘いものが食べたくなり、アイスクリームを15個以上食べ、それを消化しきれないでいた。

病院の栄養士さんに、悪玉コレステロールを下げるために毎日魚を食べるように指導された。アイスクリームは11個といわれ、それほど食べたい訳ではないので、食べるのをやめた。それまで肉も魚も自分から食べることはなかったが、毎日魚を食べるとぐんぐん悪玉コレステロールが下がり、3か月で正常値に戻り、医者からも栄養士からもほめられた。

悪玉コレステロールが下がる一方、尿酸値がぐんぐん上がり、ひどい痛風になり、栄養士さんに酒を控えるように指導され、それはできず、病院をかえた。

再び肉と魚をやめ、炭水化物ばかり食べていたら明らかに尿が濁りはじめた。母が糖尿病で死んでいるので炭水化物をやめ、肉食にしてみるとまた痛風になった。

酒と魚による痛風発作の激痛は2週間続くが、酒と肉による激痛は5日でおさまる。医者が魚は体によく、肉は体に悪いといっていたが、私には肉食の方が合っている。

今は豆腐と木の実ばかり食べている。納豆の過剰摂取も痛風によくないようなので食べない。

人間の体は自然の一部なのだから血液の流れを川の流れと考える。川にりんごや玉ねぎを放り込んでも流れはかわらないが、焼肉やアイスクリームを投げ捨てれば川は濁り、悪臭を放つ。トイレの水道管の腐食が台所の水道管の3倍遅いのは、水の流れと油の影響による。

いずれにしても、40歳を過ぎると老化は避けられない。(山田)
 

| chat-miaou | 01:01 |
35歳まで

 

35歳を過ぎるともう若くない。35歳を過ぎると酒が弱くなる。飲む度に記憶がなくなり、自分の行動に責任がもてなくなる。ほろ酔いで記憶がなくなるなどということはない。若かった勢いで飲んでしまうのだが、老化がはじまった体がアルコールの分解に追いつけなくなり記憶が飛ぶ。

周りから変な目でみられるようになる。次の世代の若者から軽蔑の目でみられる。ここで酒を控えないと必ず警察か病院の世話になる。

朝まで飲まない。昼から飲まない。夜は寝る。3つ守れば、変な目でみられたり、逮捕されるようなことにはならない。

35歳を過ぎると友達が激減する。まともにサラリーマンを続けてきた人は35歳を過ぎると急に年収が上がりはじめ、生活の差が大きく開き、話が合わなくなる。みじめな気持ちになるので会いたくない。「まだそんなことやってんだ?」と普通に聞かれる。

同窓会の幹事はそこそこに出世し、普通に結婚し子供がおり、マンションか一軒家に住み、人に話したいことがたくさんある。こちらは近況など話したくもないし知られたくないのに無神経にしつこく連絡してくる。

将来の夢や目標を語りながら酒を飲めるのも35歳までで、35歳はもう結果が出ている年齢で、そこから成長することはあっても、有名になったり化けるというようなことはもうない。次の世代の才能が続々と開花し、押し出される形となる。同じだった志はひび割れ、それぞれ現実の道を歩みはじめ、昔の友達となる。

「歳をとってよかった」「病気になってよかった」という人は多いが、人間は自己肯定しないと生きていけないからそういうだけで、本心では自分が輝いていた若い頃を繰り返し思い出し、健康を取り戻すためならいくら金をつかってもかまわない。あの頃に戻りたい。正直にいえば、感受性、希望、期待、挑戦、可能性、将来、躍動感、動き、笑った顔、セックス、歯、筋肉、肌、髪、どれも若者にかなわない。

「結婚しない人」から「結婚できなかった人」へと評価がかわる。「どうして結婚しないの?」と聞かれていたのに、「女の子と付き合ったことある?」「ひょっとして童貞?」などと聞かれ、悲しみに暮れる。「結婚はどうするんだ?」と心配してくれていた親戚たちも、気をつかってその件に触れなくなる。

35歳を過ぎたら体のホルモンバランスが崩れはじめ、眉毛が伸び出し、後頭部と前髪がハゲてなくなってしまった。白髪が急激に増え、もみあげから毎日新しい白髪が生えてきた。鼻毛、胸毛、陰毛から白髪がはえ、陰毛の白髪を抜いたら袋がトマトのようにさけ、涙が出た。背中から毛がはえてきてかなり悩んだ。40過ぎたら耳の穴からもはえてきた。耳の穴の毛は自分ではなかなか抜けない。合わせ鏡をしてもみえないから床屋に頼んで剃ってもらう。そんな姿では将来を語れない。

若い女性に恋に落ちるが相手は恋に落ちることはなく、ずっと一人だけで勝手に苦しんでいる。普通のおじさんだから、普通のおばさんに告白される。

アル中は妄想を語る。35歳を過ぎても、40歳を過ぎても基本的にいつも酔っ払っているので、現実を生きている人は聞いていられない。眉毛を伸ばして将来を語り小便をもらす。

近所に作家を目指すアル中が現れた。どこの飲み屋にも現れ、刑務所経験を語り、小説を書いているという。初めての店でたらふく飲み、「財布を家に忘れてきた」といって、そのまま姿をくらます無銭飲食の被害が続出した。

私の通う料理屋でも話題になり、

「ひょっとして山田さんのこと?」

と真顔で聞かれ、私が周囲からどんな目でみられているのかよくわかった。(山田)

 

| chat-miaou | 02:01 |
35歳の友情

 

 

35歳の時、長沢と橋本と三人で会った。

私と長沢は毎週二人で酒を飲んでいたが、橋本は仕事が忙しくなり、三人そろって飲むことは数年に一度になっていった。

橋本は会社社長として成功していた。20代の頃は三人とも金がなかったが、35歳では完全に差が開いていた。私はフリーターで、長沢は普通のサラリーマンで、橋本は何十人も部下を従える社長だった。

橋本の都合に合わせて、指定されるままに新橋の中華料理屋で会った。

数年ぶりに会った橋本は自信にあふれていた。

商談で海外を飛び回っているので、日本にいると視野が狭まると力説した。

お金よりも時間が欲しい、まだ小さい子供たちと過ごす時間が欲しい、経営者同士の株式交換の苦労話や新しく建てた家の話をした。

私と長沢はいつものように競輪で勝った話や面白い映画や本の話、飲み過ぎて階段から転げ落ちてケガした話などしたが、橋本の話とスケールが違い、うまく話がかみあわない。橋本はただ「楽しそうでいいな」と言って静かに笑った。

会うんじゃなかった。橋本は、昔の友達になっていた。

「ゆっくりしていってくれ」と言って橋本は1時間ほどで我々の勘定を済ませてから仕事に戻っていった。

残された私と長沢は悲しかった。

紹興酒をあおるようにして飲み、「大変なんだな」「忙しいんだな」とつぶやいた。

「あんなに忙しくちゃ自分の時間がなくなっちまう。俺にはできねーな。金なんていらねーよ」と長沢が言葉を選ぶようにして言った。

「すごいストレスなんだろうな、あいつ、顔つきが変わったな」と私は言った。

我々を相手にできなくなった橋本の悪口を言えば言うほど悲しみが募った。

まったく盛り上がらないまま帰りの電車に乗って、私が思わず正直に「いいなあ…」と言ってしまうと、酔った長沢が「100万ぐらいくれねーかな…」と悲しそうにつぶやいた。(山田)

 

 

| chat-miaou | 01:01 |
今年の年賀状何枚だった?
 

今年も年賀状は数枚だったが、いつも返事に来年は年賀状を送らないように書いている。返事を書く年賀状をコンビニまで買いに行かなければならないし、出しにいかなければならない。メールで十分だし、メールもいらない。ここ数年、私から年賀状を出したことは一度もない。

正社員として働いていれば、仕事の一環として会社から年賀状が希望枚数支給され、数十枚は年賀状を出さねばならず、よって数十枚の年賀状がきてしまう。失業すれば、個人的なもの数枚となるが、この数枚をゼロにするのは不可能に近い。

年賀状はゼロでいい。印刷だけのものが多いし「元気?」なんて書いて寄こされても迷惑でしかない。無視するには勇気がいり、ストレスとなる。これはもう嫌がらせとかわらない。

この件について、長沢と意見が合った。酒を飲みながら年賀状について語り合い、「年賀状なんていらねーよ」とお互いゼロを夢みていた。

失業中だった私への年賀状は8枚だった。

「今年の年賀状は8枚だった。どうしても、これ以上は減りそうにない」

長沢が「8枚? ずいぶんと少ないねえ」と私を馬鹿にしたようにいうので長沢の枚数を聞くと、

「ん? 2枚」

と恥ずかしそうに答えた。

2枚とは私より少ないではないか。長沢は真面目な正社員なので、この枚数は奇跡的ともいえる。

なんだかかわいそうになってしまい、笑いをこらえながら「だ、誰からきたの?」と尋ねると、

「ん? レコードショップ近藤とLAOX

長沢はすでに夢を達成していたのだ。

長沢の夢を壊したくなかったので、そんなのは年賀状とはいわないよ、とはいえなかった。広告をカウントに入れれば、私への年賀状は優に10枚を超える。自慢になるような気がするし、友達を裏切るような気もして、それも口に出すことができなかった。

ひょっとしたら、あの頃の我々は、年賀状がほしかったのかもしれない。(山田)


| chat-miaou | 13:24 |
若き日の誓い

 

若い女の子を飲みに連れて行けば奢る。

本当は行きたくないが、年下の男と飲みに行くことになってしまったら、こちらが誘ったのなら奢る。その方がスムースだし、違和感がない。酒場には脈々と伝わるルールがある。

年上が年下に奢る。

男が女に奢る。

誘った方が奢る。

年上が年下を「お前」と呼び、先輩として語り、お会計になり、「じゃ、ここは割り勘で」ではおかしい。奢ってくれないなら誘わないで欲しい。先輩からの誘いは断りにくい。いやいや付き合わされて割り勘にされる人の気持ちを考えて欲しい。若い人には恋人との楽しい時間や、本を読んだり映画をみたり勉強をする貴重な時間が何よりも大切で、年上の酔っ払ったくだらない話に付き合っている時間が惜しい。

とはいえ時代はかわった。女の上司、年下の上司が多くなった。上司は立場が偉いから上司が奢る。嫌なら誘わなければいいい。立場が明確にわかれてきたから、立場が下の人が「飲みに連れて行ってくださいよ」というのは卑屈な言葉となる。この場合、ケチな上司は嫌な気持ちになる。上司といえども厳しい奥さんから少ない小遣いをもらっているかもしれない。景気が悪くなり、ついに経費で飲みに連れて行ってくれる上司など皆無になった。飲み代を会社から横領やつかい込み、犯罪として扱われるケースも出てきた。周りをみてもみんなそれぞれ細々と一人で飲みに行き、自分だけの時間を楽しんでいる。世の中の風習はこうも早く移り変わっていく。人と飲みに行くと確実に無駄な金がかかり不愉快な思いをする。

きれいなバーはどれも11000円する。居酒屋で飲めば500円だが、たくさん飲むところではないから高くしないときれいな落ち着いた店を維持できない。そういったバーでもガブガブ飲む空気の読めない人がいる。自分で払うのならどう飲んでもかまわない。一緒に飲みに行かされた人の気持ちも考えなければならない。ガブガブ飲むのは1軒目の居酒屋で、だから居酒屋は安いしボトルもある。おしゃれなバーにボトルなどない。

割り勘で焼肉を食べに行くのも危ない。11000円する皿が多いから、たくさん食べる人は迷惑な存在になる。11000円するような焼肉屋、鮨屋、バーでの割り勘は明らかにその差が金額にあらわれる。

1杯(500円+つまみ)しか飲んでないのに3500円も払わされた」というのが居酒屋での恨みだが、バーや鮨屋や焼肉屋では「1杯(1000円+鮨、肉、大トロ、ウニ)しか飲んでないし、俺はたくさん食べられないし、トロもウニも食べられないのに1万6000円も払わされた。悪いのは一人で飲み食いしたあいつだ。あいつとは二度と飲みに行かない」という個人への恨みとなる。人の金で嬉しそうに飲み食いする人は心の底から恨まれ二度と誘われることはなくなる。それを計算に入れている極悪人もいる。空気を読めないから周囲の全員が陰口をいってその人を避けていることに死ぬまで気付かない。みな考えていることは一緒で、店の人も周囲の人もちゃんとみている。

同じ歳の長沢と二十歳の時に二人で酒を覚え、毎晩のように泥酔しながら色々な話をした。鮨と焼肉を奢りで食う人間の顔はみじめだというのが我々の考えだった。若いうちに鮨と焼肉をこちらから飽きるまで食ってしまおうということになり、いつも鮨屋と焼肉屋を攻めていった。将来きっと役に立つと信じて。

まだ完全予約制でお任せの握りのみになる前のすきやばし次郎にも長沢と行ってバカにみたいに酒を飲み、小野二郎さんが嫌な顔をして我々をみていた。二郎さんは酒飲みが嫌いで、鮨を味わってもらうため、今はすきやばし次郎でガブガブ酒を飲むことなどできなくなったらしい。

長沢は鮨に詳しくなり、まずい鮨を食うと「講談社で」といって領収書をもらう。そうすれば鮨屋が我々をマスコミの偉い人か料理評論家だと勘違いしてビビり、以降反省して腕をみがきはじめると信じて。

いつも競輪場で勝負してから食事に出掛けた。新橋の場外車券場で勝負し、勝ち金を分け、銀座を攻め歩いた。競輪で100万円勝って飲み歩く年収300万円の20代の若者の客など我々の他には見当たらず、それだからこそなお我々は生き急いだ。こんなことを歳取ってからではなく、20代の今やることに意味があると日々自覚していた。そのために本もたくさん読んだ。

長沢は鮨屋でも焼肉屋でも、まずは一番高い物を注文した。一番高い物を食えば、もう他のものにはビビらない。

たまに競輪で勝つことができると食事代と飲み代が1軒で数万円かかった。ドンペリにも挑戦しすぐに飽きた。競輪で大勝し、横浜中華街で初フカヒレ(2万円)、初北京ダック(2万円)を食べ、初6万円の豚の丸焼を注文すると「絶対食べきれないから」という理由で断られた。

腹いっぱいになり、個室トイレに並んで入り、のどに指を入れて吐いてから次の店に行ったこともあった。30歳を過ぎた頃には完全に鮨と焼肉に飽きてしまい、二人で鮨屋や焼肉屋に行くことはなくなった。鮨も焼肉も体に重い。二人とも1軒で10杯以上飲んでいたからそんなにたくさん食べられない。ずっとお金がなかったから久しぶりに行ったチェーン店の居酒屋の安さに改めて感動し、出発点に戻り安酒場ばかりで飲むようになった。

飲みに連れて行ってもらって喜ぶということはない。できることなら行きたくない。一人で黙って飲みたい。

40歳を過ぎて体を壊すと肉も魚も体に合わず食べられなくなった。普通の人より内臓の老化が早く、消化し切れなくなってしまった。今は野菜と果物と豆腐、煮物や野菜スープ、豆、ひじきなんかが体に合っておいしい。

鮨は好きだが、焼肉屋へ年に1度行くことは絶対ないし、死ぬまでに何度も行かないと思う。歳を取るとあんなものは恐くて食べられない。絶対に痛風の発作が起きてしまう。20代の日々、長沢と飲み歩いた時間があったから、今も鮨や焼肉にありがたみを感じない。高級店に動じることもない。感受性の強い20代に、超一流の素材を、仕事のこまかい名店で食べまくったかけがえのない記憶ははっきりと残っている。感動ばかりの熱狂の日々だった。今はもったいなくてそういう店に行く気がしない。遠くて行くのが億劫になる。長沢と決めた選択は間違っていなかった。(山田)

 

| chat-miaou | 01:01 |