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介護日記

 

月に何度か入院先の病院から別の病院に父を通院させている。

ベッドから車椅子に父を移し、手足を拭き、靴下を履かせ、ジャンパーを着せ帽子をかぶせると、

「やめてくれよ! 自分でやるから余計なことしないでくれよ! 触んじゃねーよ!」

と突然怒鳴りはじめた。

たまに突然怒り出す。

介護をする人は例外なく必ずこれを経験する。

自分で着替えをやらせていたらいつまでも終わらないから、病院の予約時間に間に合わなくなる。だから待っていることはできず手を貸すのだが、それをあらっぽく感じて頭にくるらしい。しばらくお互い沈黙する。暴言に傷つき、それが強いストレスとなり、しばらく落ち込んでそれをやわらげるために酒を飲むようになり、アルコール依存症になる人が多い。相談する人が誰もいないから酒を飲んで時間を早送りして乗り越えていく。

1度父を病院に連れていくと7時間かかる。どこの病院も混んでいて2時間待ちは普通だ。元の病院のベットに戻す頃にはかなり疲れてストレスが溜まっている。朝から車椅子を押してずっと隣に付き添い、ちょうど夕方に終わって飲みに行く。うまい酒ではない。しかし飲むしかない。今日は怒鳴られたから飲みに行く。なんでもいいわけにして飲みに行く。酔って時間を早送りさせれば明日がくるのが早くなり、翌朝目覚めて気分がよくなっていることだってある。

私の場合、父に深い愛情はない。他にすることがないし、仕方なく介護している。怒られるなんて嫌に決まっているが、父の暴言は無視している。暴言を吐いた後の父は必ず反省している。帰りの別れ際には必ず「どうもありがとう」とお礼をいわれる。

暴言に意味はない。暴言の内容に深い意味はない。自分のことができず、トイレにも行けないイライラが募っていき、ちょっとしたことで爆発する。細かい手作業に疲れ、道具を投げ出す行為とかわらない。ただのため息みたいなものだから気にするだけ体に悪い。これからだってまた突然怒鳴られるが、深い意味などない。できるだけかかわらないように離れて暮らすように心掛けないと、依存は増す。世話をすればするほど怒鳴られる。放っておき過ぎると病院から注意される。病院は介護施設ではないので体を拭いたり、洗濯をしたり、お菓子屋やお茶を買いに行ったりはしてくれない。週に2回までにしないと危ない。週に3回行くようになるとこちらもやられる。

酒場のマスターは愚痴を聞いてくれる。

「俺ももう60歳だからそうならないようにしよう」

「簡単だよ、病院ではなくて介護施設に入ればいいんだ、そうすれば誰も介護に苦しむことはない」

「そんな金ないよ」

「安いところをみつければいい」

「でも、俺、介護施設なんて入りたくないな」

マスターも父も一緒だ。介護が必要になった時に介護施設に入らないのなら、身内の誰かが犠牲になって介護をする他ない。1人で犠牲になる場合、仕事なんてできない。手続きや介護でしょっちゅう呼び出されるから、そんなことを許される会社なんてない。自営業なら可能だが、自営業に失敗したら介護する金まで失ってしまう。周囲をみると自営業に失敗している人しかいない。どうにも身動きが取れない。

みんなどこかで自分だけは違うと思っているが、みんな最後は要介護になると思っていて間違いはない。

どうしても他人事を自分事として考えられない。スマホで老人ホームを検索する。

「ほら、こんなにたくさんあるよ、早く施設に移した方がいいよ」

と教えてくれるが、そんな簡単なことではない。場所、料金、空き、引っ越し、車の手配、車椅子の手配、転院手続き、保証人、薬、着替え、父の意志、父の説得、他の病院への通院、介護認定審査、すぐにしなければならないことがたくさんあり、次から次にやることができ、いつまでも終わらない。全て自分のことではない、人のことばかりを、書類を読むことさえできなくなった父の代わりに手続きしていく。父が死ぬまで終わらない。頭が回らない。先のことを考えると何もできなくなる。運命に押し潰されそうで検索するのも煩わしい。

インターネットに答えはない。その場その場で1つ1つに対応し、乗り越えていくしかない。父の介護は8年目になる。母の介護と合わせると14年目になる。いつも突然呼び出されるから14年遠出できず外泊できない。その日のうちに帰ることのできる距離までへしか出掛けられない。こんなに長くなるなんて思ってなかった。楽になったと思ったらまた問題がやってくる。体がもつ自信はない。(山田)

 

| chat-miaou | 11:51 |
介護日記 12

 

父の目の眼圧が上がり、また出血した。

立つこともできないので車椅子のまま乗れるタクシーを探す。

介護タクシーは個人でやっている人が多く、介護サービス料が高い。時間制のタクシーもかなり高い。

普通のタクシー会社で車椅子がそのまま乗れるタクシーをみつけ、予約すると、予約料が410円かかるだけで、乗車料金は普通のタクシーと同じでこれは安い。普通のタクシーに乗る場合は、車椅子をトランクに積み、父を乗り降りさせるのにいつも5分はかかる。運転手に気をつかいあせって疲れる。

眼科に行くと、思ったより悪く、緊急手術をすることになった。大学病院に移ってまずは緊急入院することになったので、タクシー会社に電話すると車椅子ごと乗れるタクシーに空きがない。どこのタクシー会社に電話しても空車がない。1時間以上は待つという。行きは早めに予約して病院に行き、帰りは診察の終わり時間がわからないから予約できず、タクシーがつかまらないパターンが多いという。5つの会社に電話したがつかまらないので普通のタクシーに父を抱きかかえて押し込み、車椅子をトランクに積んだ。

家に診察券を取りに戻り、今まで入院していた病院に戻って退院手続きを取り、それから大学病院の眼科の外来受診を受け、入院許可された。

入院申込書に連帯保証人欄がある。父が患者で私が保証人ではダメだという。住所が違う別世帯の人でないとダメだという。思い当たる人がいない。頼める人がいない。電話できる親戚が一人もいない。

飲み仲間の顔が浮かんだが、彼らのことを詳しく知らない。行きつけの店のマスターの顔が浮かんだが、彼の名前も知らない。入院の保証人になってもらい、その後、彼らの人生に危機がやってきた時にサラ金の連帯保証人を頼まれたら断れなくなるから頼めない。

一人だけ頼める人がいる。23歳の時、友人の首吊り現場を発見し、20年以上経った今でも彼のお母さんが私に米を送ってくれる。ずいぶん悩んだが頼めるのは彼女しかいない。電話をするとすぐに引き受けてくれた。私は彼女に米を送ってこないようにいい、年賀状もいらない、私に恩を感じる必要はないと強くいい続けてきたのに、こちらから彼女に電話して連帯保証人を頼んだ。今の世の中は一人では生きていくことができない。連帯保証人制度はなんとかしてほしい。入院保証金を高くすればそれで済む。

前の病院と違って看護師さんが父に手を貸してくれない。できるだけ自分でやらせる。態度がきつい。そうしないと患者は看護師を頼り甘えるようになる。だから本当はやさしい人たちが不愛想に厳しい態度を取る。病院は介護サービス企業ではない。

車椅子の乗れるタクシーを探したのが朝の9時で大学病院の入院手続きが済んだのが夜の8時でずっと立ちっぱなしだったからクタクタに疲れていると、前の病院から電話がかかってきて荷物をすぐに引き取りにくるようにいわれた。

二年もいた病室なので荷物が多い。車をもっていないからタクシーで運ばなければならない。疲れて体が動かない。明日にしてくれるように頼むと、明日の午前中まで待ってくれた。嫌がらせをしているのではない。厳しく不愛想にして、前例をつくらないようにしなければ患者はどんどんルーズになる。いつまでも荷物を引き取らない人もいる。

結局父の手術と入院はそれから1週間かかった。

大学病院を退院し、また前の病院に電話した。

受け入れてくれなかったらどうしよう。ベッドが空いていなかったら、受け入れ先がみつかるまで父と二人でホテル暮らしをするしかない。不安で眠れず、診察開始時間の朝9時を待って前の病院に電話した。

「すいません、また受け入れていただけますか?」

しばらく待ってからOKをもらい、ホッとしたら涙が出た。

前の病院に辿り着き、父をベッドに移すと看護師さんたちが手を振りながら父に会いに来てくれた。看護師さんはみな美しい、みんなやさしい、とても嬉しい、また涙が出た。(山田)

 

| chat-miaou | 01:01 |
介護日記 11

 

病院を訪ねると父の顔色がいい。ここ数年で一番顔色がよく、おだやかな顔をしている。気持ちよさそうに眠っている。病室を掃除しながら(あと10年は大丈夫だな)と思った。

(あと10年……あと10年というと今俺は47歳だから57!)

57歳なんて、あと3年でおじいさんになる。

人生は60歳からなんていうけれど、それはおじいさんが自己肯定するためにいっているだけのことで、60歳になったら全力で走ることもできない。誰だって若き日々に戻りたい。

母の介護は6年で終わった。父の介護は7年目になる。計13年も遠出することのできない生活をしている。主婦だってみんなそうだ、という考え方もあるが、大好きな子供や夫のため、自分が好きで選んだ道とは違う。介護や奴隷は自分の意志とは関係なくやらなければならないことが多く肩がこる。どうせ数十年後にはみんなこの世にはいないのだから親なんて捨てて逃げればいいが、親子感情というのはそう簡単なものではない。恩義と幼い頃にやさしくしてもらった思い出がある。性格的に親を捨てて逃げる勇気や決意や気力もない。

57歳、実際にはそこまで長くは続かないとは思うが、何もかもあきらめた。

母の介護をしている時、まだ30代だった。狭心症の母は冬の夜、血管が縮んで胸の痛みに苦しむので石油ストーブをつけっぱなしにし、何度か蒲団を燃やした。火の番をしながら、もう就職なんてできないな、と考えていたが、母が死んで数か月後に、新雑誌創刊に誘われた。周囲から「よくそんないいところに就職できたね。やっぱり神様はみているんだなあ」と羨ましがられた。36歳でまた熱狂の青春時代が訪れた。

また編集者に戻れて嬉しくて楽しくて、会社に行きたくて朝が待ち遠しく始発で出社した。取材して記事をつくって本を出版できるなんて、遊んでいるのと全くかわらない。しかも取材費も給料ももらえる。人の嫌がる仕事を上司から押し付けられると燃えてきた。会社の電話が鳴ったら全部出た。元旦も出社し、他の社員の年賀状を仕分けし、机の上に配って回った。取材で遠出し、毎晩夜遊びし、きれいな女の子とデートし、眠らずに出社した。「シャブやってんの?」と友人に聞かれ、15キロ以上痩せた。痩せているから体が軽く、洋服が似合うから買い物も楽しく、もっと働きたくてアルバイトもして年収が600万円を超えた。

同じ環境はいつまでも続かない。全てに必ず終わりがくる。植木等のようなハイテンションでバラ色の生活は4年で終わった。会社をクビになって3か月後に大地震が起こった。父が被災し、津波で全てを流され、また介護生活がはじまった。(山田)

 

 

| chat-miaou | 01:01 |
介護日記 10

 

院から電話があり父の病室に行くと、真っ赤な目をして涙が流れている。

かなり痛いらしく、目が少し飛び出ている。急いで眼医者を探し、タクシーで連れていった。

先生に私一人が呼ばれ、じっとみつめられる。強い眼圧で出血しているが、思い当たる節はあるか聞かれた。

父は思い当たらないと答えた。

先生は私を疑っているのかもしれない。医者の役目で事件性があるか確かめているのだろう。

全く思い当たらないが、風呂で転んだのかもしれない。(病院の誰かが父を殴ったのだろうか?)という気持ちになってくる。かなりひどい。テレビでは施設での老人虐待が多く報道されている。(寝ている間に誰かが目に何かを突き刺したのかもしれない)という気になってくる。

治療費がかなりかかる可能性があり、父の年齢を考えて、どこまで詳しく調べるか聞かれた。最悪は右目を摘出しなければならない。

できるだけ詳しく調べてもらうことになり、紹介状を書いてもらい、大学病院を予約し、それまでの間は毎日応急処置に近くの眼医者に通った。

大学病院で詳しく調べてみると、目元の血管に血栓ができ、血液が目にゆき届かず、そのため新しい血管がのびてきて、それが原因で眼圧が上がっていた。かなり前から目はみえなかくなっていたはずだが父は気付かなかった。

外からの眼圧ではなかった。寝ている間に誰かに殴られたのではなかった。お世話になっている人たちを一瞬疑ってしまい申し訳なくなる。

2日かけてレーザー手術で血管を焼き切った。視力は失ったが眼球摘出はなくなった。

「目のみえないおじいさんはたくさんいるから」

父に声をかけると、悲しそうにしていた。

片目の視力を失い、バランスがくずれたのか、その後しばらくして父は転倒し腰を強打し、そのまま寝たきりになった。立ち上がることができないから尿管に管を通しオムツをした。テレビをみなくなった。食事を残す量が増えた。さらに老衰が進む。

完全に寝たきりになると私の仕事はほとんどない。病院の人がみなやってくれる。動かないからどこも汚さない。オムツをしているから服やスリッパを取り換えに行く必要はなくなり、トイレを掃除する必要がなくなった。部屋の悪臭も全くなくなった。寝たきりになると、みんなが一気に楽になる。私の役目はなくなり病院に行く必要がない。ガムテープでシーツについた髪の毛を貼り取るぐらいしかすることがない。今まで何をやってきたのだろうと思う。過去のことは終わってみるとみんな現実感がなくなる。自分の存在意味がなくなる。(山田)

 

| chat-miaou | 01:01 |
介護日記 9

 

週に二度、病院にいる父のスリッパを取り換えに行く。

無理に頼んで入院させてもらっている。

父は病院でもオムツを拒否している。

私は朝早く父のところにいく。

たまにトイレがクソまみれになっている。

私が掃除しなくても掃除のおばさんがやってくれるのだが、申し訳ない。

毎朝8時に掃除のおばさんがくるからその前に行く。

それでも、私が行く週二度以外はおばさんが父のクソを掃除している。

掃除するのは時間がかかる。自分につかないようにたくさんのトイレットペーパーをつかって時間をかけて慎重に便器をみがいていく。少し時間が経つとなかなかふきとれず、その日一日は食欲が失せる。

便器だけでなく、床もスリッパも汚れ、少量でもかなりの悪臭を放つ。

ごくたまに看護師さんの所にお菓子をもってお礼をいいに行く。掃除のおばさんに頭を下げて冷えたお茶を手渡す。

病院で嫌がられて追い出されたら、また私が自宅で父の世話をすることになる。私にはもう父の世話をすることができない。

父も看護師さんや掃除のおばさんに迷惑を掛けてはいけないとわかっている。だから気合が入ってクソや小便をもらすのは2週に1度程度だし、看護師さんに強く注意されれば風呂に入って体を洗い流す。父が拒否しても聞かず、危ないからといって爪を切ってくれる。父もよそ様には怒鳴らない。

私ではそうはいかない。もらしたまま着替えない。手を貸そうとすると怒鳴って拒否する。風呂には1年以上平気で入らず、やっと入っても体を洗うことなどできない。ヒゲはそらない。鼻毛があふれ出る。爪も異常なくらいのび、手を洗わないから野生動物より汚い。体からも部屋からも悪臭を放ち、すぐに虫が湧く。何度掃除しても後から後からクソがもれてくる。着替えないからふいて回っても切りがない。毎日洗濯に3時間かかった。

とても簡単なことだ。父以外は誰もがわかっている。オムツをすればいい。これがどうしてもできない。

本人はプライドが高いからオムツなんてつけられないというが、もう50回はクソをもらし、その度、誰かがその後始末をしている。その事実を認めない。人間は自己肯定しないと生きていけない。少しボケているからもらした事実を認めず、その事実を忘れ、自分に都合よくなかったことにして、もう二度ともらさないと決意している。ウソをつくのと違い本心からオムツは必要ないと思っている。

私と父の場合、できるだけ離れていた方がいい。私を怒鳴って無理矢理従わせることができても、病院ではそうはいかない。

車椅子にもなかなか乗らなかった。他の病院に検査に行かなければならず、私が付き添うのだが車椅子など必要ないと怒鳴る。

しかし、歩けない。

すぐに転んで危ないから後ろから支えようとすると嫌がり、車椅子を支えにするという。父が車椅子を支えにして無人の車椅子を押して歩き、その後ろを私がついて歩く。誰がみても認知症の老人だった。父の後ろをついて歩く私をみて「ご兄弟ですか?」という人がいた。

なかなか前に進まないので手を貸そうとすると怒鳴るが、診察時間に間に合わなくなるので少しきつくいって車椅子に座らせた。

病院の人たちはやさしい。いうことを聞かない父がベッドに縛られた。ベッドに体を縛り付けるには家族の同意書がいるので、私は許可書にサインをするためだけに至急病院から呼び出された。

数年前なら無理矢理病院を出てしまった父だが今はトイレに行くのがやっとで、それ以外はずっと寝ている。

全て父が悪い。看護師さんや掃除のおばさんのストレスも限界に達しているかもしれない。病室のにおいもひどい。

オムツをするだけで解決する。

80歳を超えた老人がよくなることなどない。よくなってもらっても困る。長く生き過ぎている。死ねなくて困っている。絶対にあんなに長く生きたくない。もっと早く時が過ぎ、老化して完全な寝たきりになって欲しい、もっと早く歳を取って自意識がなくなって欲しい。私も、おそらく看護師さんも掃除のおばさんもそう願っている。(山田)

 

 

| chat-miaou | 01:01 |
介護日記 8

 

父の検査に付き添わなければならず、朝が早いから早く寝なくてはならないのだが、そのプレッシャーで眠れない。遅刻することはできない検査なので、酒を飲みにいく前に目覚ましをセットした。寝酒のつもりで近所のバーにいくと止まらなくなってしまい、少ししか眠れず、ひどい二日酔いになってしまった。

父を車椅子からタクシーに移して大学病院に連れていき、タクシーからまた車椅子に移し、数か所検査して回る。

午前中だけでは終わらず午後になり、数年ぶりに父と二人で昼食をとった。二人でカツカレーを食べながら会話はなかった。

子供の頃は父と二人で映画や野球をみにいった帰りに向かい合って外食した。父はいつも私の食べたいものを聞き、食べはじめる私に「うまいか?」と聞いた。

これが二人で向かい合ってとる最後の食事になるような気がした。

このところ、歩けない父の付き添いが続いている。長い時間父と二人でいる。

「こんなに長い間お父さんといるなんて生涯ではじめてだね」「そうだな」

仕事好きで友達が多かった父はいつも忙しく、家にいることが少なかった。

ずっと車椅子を押していると座ることができず目まいがした。

先生から説明を受けている時、目がみえなくなってきたので倒れるのがわかった。その場にしゃがみ込んで、騒ぎになると悪いから先生にめまいがすることを伝え、しばらく床に座らせてもらったのだが、診察の邪魔になる。

少し休めば元に戻ると伝えたが近くのベットに運ばれた。目がみえないから5分だけ寝た。父のトイレの付き添いを看護士さんにお願いした。

血圧を測られそうになったが、今は病院にかかるわけにはいかないので拒否した。

「顔が真っ青だ。尋常ではない冷や汗をかいている」と先生が心配してくれたが、寝不足で通した。酒を飲まなければこんなことになることはない。

ベットで横になり目をつむっている私の横で車椅子の父が「こういうのはやめてくれよ」とつぶやいた。父のいう通り、人に迷惑をかけてはいけない。

この日以来、私は用がある前の日は酒を飲まなくなった。誘いもきっぱり断ることができるようになった。

20歳から酒を飲んで27年、やっと酒にも飽きてきた。もう未来はないのはわかっているがまだまだ本を読んで勉強したい。勉強には希望がある。駄目だとわかっていても希望がなければ生きていけない。目が悪くなって文庫本を読めなくなったのがつらい。(山田)

 

 

| chat-miaou | 01:01 |
ダイエット禁止

 

ダイエットをしている人をみると、すぐにやめるようにいう。

痩せるかもしれないが、必ず元に戻る。周りの人も芸能人もみんなダイエットに成功しているが、その後必ず元に戻っている。モデルと女優以外は太っていようが痩せていようが何もかわらない。健康にいいといったって、食べたい物も食べられないようでは健康ではない。楽しくない。楽しみがない人生はつらいことばかりの人生になる。

私の母の糖尿病が悪化した時、私は母の食事から肉、魚、油を奪った。親孝行のつもりで大変な親不孝をしてしまった。

甘い物が好きだった母があずきの缶詰を買ってきて食べているのをみて取り上げ、水をかけて流しに捨てた。

揚げ物が好きだった母が私のつくる食事では満足できず、コロッケを買ってきて私はそれを握りつぶしてゴミ箱に捨て、母はゴミ箱からそれを手づかみで拾って食った。地獄のような光景で、悪いのは全て私だった。

母が死ぬと医師にいわれ、母に食べたい物を聞いた。

「みたらし団子に熱い紅茶」

もう口を開けることもできない母は私の指先から一かけらのみたらし団子と一口の熱い紅茶を飲み、「おいしい」といった。それが母の最後の食事となった。

私のつくる食事で母の病気がよくなったことなど一度もない。痩せることもなかった。今でも毎日後悔している。食べたい物ばかりを買ってきたら、どんなに精神的に楽だったろう。人生は一度きりなので、私にはまだそういうことがわからないでいた。現実をみず、自分の考えで突き進んだ。食べたい物は食べるべきで、食べたい物などそのうちなくなっていく。

母が死ぬと医師にいわれた時、フラフラになって母の病室に向かった。もうすぐ死ぬことは母にいわないように医師からいわれた。大変なショックで、生涯で一番暗い日だった。

口を開けると顔がゆるんで泣いてしまうから、歯をくいしばって母の肩をもんだ。5分ももんでいると「もういいよ」と母がいったが、他には何もできないからもみ続けているうちに立っていられなくなり、ひざを床について声をあげて泣いてしまった。

「順番だから仕方がないよ、もういいから飲みに行ってらっしゃい」

これまでのことを母に謝り、母は目を閉じたまま黙って頷いていた。(山田)

 

| chat-miaou | 01:01 |
介護日記 7

 

父の病院に行くと、父が枕元に向かって話している。

私が来たのをみると、

「おお、やっと来たか」

とハイテンションで話し掛けてきた。

いつもは無言だから、麻酔が効いているのだとわかる。

縮んでしまった膀胱を広げるカテーテル施術が3週間に一度あり、麻酔が効き過ぎると頭がおかしくなる。

「ちょっと、昼メシ食ってくるわ」

といって立ち上がろうとするが、体が動かない。父は1年病室から出たことがない。

立ち上がろうとする父を止めるが、父は私のいうことを聞かない。

近くの看護師さんを呼んで助けを求める。

あわてる私と違い、看護師さんは慣れている。

父の自由にさせ、倒れそうな時に体を支えてくれる。父は看護師さんに「このへんにうまいチャーハンありますかね?」なんていっている。私は40年以上、父がチャーハンを食べているのをみたことが一度もない。普段私とほとんど会話をしない父は、実はチャーハンを食べたいのかもしれない。

しばらく好きなようにさせ、立てないことがわかりあきらめると、ベッドに戻された。

他人だから余計な感情がなく、仕事に徹し、サバサバしている。いうことを理解できないボケ老人に、見事な対応であった。

看護師さんが行ってしまうと、親友の内藤さんが下で煙草を吸っているから煙草をもらってきてくれ、という。父は煙草をやめて5年になる。内藤さんがお見舞いにきているといい張るが、内藤さんは今年亡くなった。完全に頭がおかしくなっている。

また立ち上がろうとしはじめ、私のいうことを聞かず、ついに床に倒れ落ちた。

床に倒れて、立ち上がろうとしても体がグニャグニャで動けない痩せこけた父の姿は人間とは違う生き物のようだった。

不慣れな私はナースコールで看護師さんに助けを求め、来てくれた看護師さんは私に、父をベットに縛りつけていいか聞いた。こんなことを繰り返しているとケガをする。

ベットにベルトで父の体を固定する承諾書にサインした。私がいると、また怒鳴り出すから、父には何も説明せずに、とっとと病院を後にした。私が来る前はおとなしく寝ていたというから、すべて病院に任せた方がいい。看護師さんからみたら私は邪魔者で早く帰ってもらいたい。中途半端に任されると看護師さんは仕事がはかどらない。いつまでも一人の老人についているわけにはいかない。

立ち上がろうとする父を止めようとしても父は私のいうことを聞かずに怒鳴ってきたが、看護師さんには敬語をつかって応対し、自分の体が動かないことを認め、悲しそうにベッドに戻った。

ここに介護問題がある。家族が要介護者と距離を置き、施設に任せれば面倒な問題や苦悩は大きく減る。

私は仲のよい家族ではなかったから、ありがたく全てを病院に任せたいが、仲のよい家族は放っておけないらしい。できるだけ一緒にいたいらしい。病院や施設にあずけることができないということは、それらの仕事を家族がやることになり、他のことはできない。(山田)

 

| chat-miaou | 01:01 |
普通の人

 

最近は父の病院にあまり行かない。行ったって何も話がないし、することがない。ここら辺で距離をおいた方がいい。行かなければ行かないほど父は私に頼らなくなる。元々仲のいい親子ではない。

甘い物に飽きてしまってからは私が父にしてやれることはない。病室の棚に日持ちのするお菓子を多めに置いておいたが、しばらく減らないままだった。

久しぶりに病室に行くと、お菓子がなくなっていた。

私の酒と一緒で一度飲まない日が続くと飲まないでも平気だが、また飲み始めると止まらない。父も酒飲みだったから甘いお菓子も同じようなものなのかもしれない。

一日にビスケットやクッキーやチョコレート菓子を2箱も3箱も食べる。

「あると食べちゃうからあまりたくさん置かないでくれ」

と父はいうが、買いに行くのが面倒だから私はそっと棚の奥に買い置きしておき、父はそれを探し出して食う。

父のいうことを聞いていると振り回されてこちらがおかしくなる。人間にはそれぞれ生活ペースがあり、それを他者から妨害されるとストレスがチクチクとたまっていく。

在宅介護をしている時、食べ物を冷蔵庫に入れておくと、外に買い物に出掛けなくなり、歩かなくなるから買い置きはしないでくれ、と父から強くいわれた。しかし、父が買い物に出掛けることなどなく、腹が減り、時には飢え、私の携帯に電話してくる。連絡は増え、私は振り回される。一日に3度も4度も呼び出される。要介護老人との関係は、距離を置かなくてはこちらもやられてしまう。

甘い物を食べたいのならば、食べたいだけ食べればいい。食べたい物など、どうせそのうち飽きてしまう。80歳を過ぎ、歩くこともできないのだからせめて食べたい物を食べたいだけ食べればいい。父はもう死にたがっているし、6年も寝たきりの状態で、これから先元気になることなんてありえない。元気になられても困る。

私は糖尿病の母の食べたい物を治療のつもりで奪い、それを深く後悔している。食べたい物を食べてもっと早く死んだ方がよかった。悪いことをした。そのことを父に話すと「そうだな」と納得した。父は母とずっと別居で、病気の母の世話をいっさいしなかったのでうしろめたさがあるので、私は母の話をして父を説き伏せることが多い。それが一番話が早い。

食べたい物を食べないで長生きする意味は父にない。血液検査なんてもうどうでもいい。

振り返ればわかるが、母の悪化した糖尿病がよくなることなんて一度もなかったし、食べることが好きな母に食べること以外の楽しみは何もなかった。

糖尿病は治るのかもしれない。もしも決められたカロリー、例えば11000キロカロリーで一生過ごし続ければ治りそうな気がするが、そんなことをできる人は普通はいない。生まれもった胃袋の大きさがあるし、人それぞれ体が求める食欲がある。世の中の99パーセントの普通の人は食べたい物を食べたいだけ食べる。楽しくておいしくて気持ちがいいから食べる。

食欲を自由自在にコントロールできるほど食欲の弱い人なら糖尿病になどならないし、太ることなどなく痩せている。

1000キロカロリーなんて、ろくに酒も飲めず、酔うこともできない。肉も魚もごはんもパンも、おなか一杯食べることができない。

私の痛風も酒を飲まなければ発作が起きることなどない。魚を食べなければ、肉を食べなければ痛風は治るが、そんなことをして治しても他にすることがない。他にすることがあるならそれでいいが、普通の人はいつまでもすることなんてない。目も感受性も老化するので音楽も映画も漫画も小説も長くて面倒くさい。普通は年下の若者を尊敬することはできないので新しい作品を受け入れづらい。普通の人は鮨屋へ行くぐらいしか楽しみがない。

テレビで高齢者問題を扱う番組を見ていると「ただ生きているだけ」「死ぬのを待っているだけ」と発言する老人が多い。

エリートだった私の父も老後は読書、孫と旅行、ゴルフ、などといっていたが、実際は本など一冊も読まないし、糞まみれで寝たきりで、全ての誘いに完全無視を貫いている。もう誘いを断るのも面倒で、電話も無視している。早く死にたい。活発で、やりたいことだらけの老人なんて普通の人ではない。私の一族はできるだけ迷惑にならないように糞まみれになってひっそりと暮らしている。

結果が出ている年齢になったら、せめて飲み食いだけは自由でいたい。

食事制限をして体形を変えることは誰でもできるが、それは本当の姿ではない。普通に気持ちよく食べればすぐに自然の姿に戻っていく。

私もこれまで食事制限により同じ身長177センチで50キロ台1回、60キロ台に5回以上したが、普通に気持ちよく食べてしまうとすべて3か月で本来の80キロ台に戻った。本来の体重以上に増えていくこともない。そのうちまた気が向いて60キロ台になることがあるかもしれないが、すぐに本来の体形に戻るのは承知している。

ダイエットに成功した有名人は必ず「私の場合は正しいダイエット法なので、リバウンドしないと医者にいわれた」といって本まで出版するが、みな絶対に遺伝子で決められた本来の体形に戻り、沈黙する。リバウンドではない。普通に元の姿に戻っていく。本来の、自然で正しい姿に戻っていく。不自然には無理がある。体が毎日ずっと本来決められている体形に戻ろうとしているのだから体重増加は止められるわけがない。

病気で胃を切り取った人は痩せたままでいる。食べたくても入らないから元に戻れない。

現役のプロスポーツ選手か人気女優でもない限り、毎日食べる量なんて面倒くさくて計っていられない。「こんなことしてなんになる」と思う日が必ずやってくる。実際、普通の人が痩せても周囲からガンではないかと噂される程度で、特別かわったことなど起こらないし、女にもてることもない。本を出版することも絶対にない。

太っているから嫌われるということはない。鼻毛や口臭は嫌われる。鼻毛は抜いたり切ったりすればいい。口臭は歯医者に行き、歯磨きの回数を増やせば防げる。生まれもって決められた体形をまずは受け入れ、食べたい物を楽しんで食べ、それから対処する。

誰でも痩せられる。痛風は治る。糖尿病も治るのかもしれない。治ったって特にすることはない。(山田)

 

| chat-miaou | 01:01 |
親子の会話



母が危篤になった時、私はキャバクラで飲んでいた。具合が悪いのはわかっていたから心配はしていて、キャバクラ嬢との会話も上の空だった。

「今日、晩ご飯何食べた?」「豆腐」「何味?」「醤油」

近いうちに死んでしまう母と話をした方が有意義なのはわかっているのだができないでいた。楽しくてキャバクラに行っているのではなく、他に行くところがなかった。

携帯の電波が届かない地下のキャバクラを出ると、留守電が残っていて、母の入院する病院からで、母は危篤になっていて、それから12日後に死んだ。

最後の入院の1週間前には白内障の手術を一人で受けに行き、手術を終えてサングラスをかけて帰ってきた。もう腎臓が機能しなくなっていて、母の体は大きくふくらんでいた。むくみで大きくなって、苦しそうにしているサングラスの母と目が合ったが、私は言葉をかけることもなく自分の部屋に戻った。母が死ぬのがわかり恐かった。

私は「おかえり」も「おはよう」もいっさいいわない人間で、母もそういう息子だとわかっていたが、病院に付き添いぐらいはするべきだった。母の古くなったスニーカーをそっと買い替えておくぐらいはできた。

母の世話は一通りしたが、一度、頭にきてしまいゴミ箱を母に投げつけた。病院で母が死ぬ、と先生に伝えられた時、突然その時の母の怯えた顔が頭によみがえり、今までに感じたことのない恐怖を味わった。どこかにずっと母の怯えた顔が残っていて、その後悔を払拭することができないでいた。今でもあの顔を思い出し、鉛を飲んだような気持ちになる。

母の葬式の最中あの時のキャバクラ嬢からメールがきた。

「お疲れちゃん!」「今、母の葬式」

それ以来、彼女からメールがくることはなく、私が店に行くこともなかった。

母が死んでも父がいる。父とは後悔のないように話をしておこう、と本気で冷静に意識しているができないでいる。

何度も覚悟して今日こそは、と会話を考える。頭の中のリハーサルではうまくいく。病室で朝の連続テレビドラマをみている父に話し掛ける。

「この子、勉強もできるんだって」「ふーん」

後が続かない。

もうあきらめた。私にはできない。やるだけのことはやった。
決して怒らない。

三日おきに父に会いに行き、「おはよう」「おはよう」「じゃあね、お大事に」「ありがとう」だけをいい合う。(山田)

 

| chat-miaou | 01:54 |