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一人暮らし健康説

 

 

最近気づいたのだが、病気になる人には介護をしてくれる人がいる。

要介護の人はたくさんいるのだが、私の周りには一人も、一人ぼっちの要介護者がいない。

私が倒れたら車椅子を押してくれる人はいない。どう考えてもいない。探してもいない。知らない人が「私が押す」といってくれても拒否する。

だから私は病気になるわけにはいかず、倒れるわけにもいかない。

これが健康法になっているような気がする。

本心から「病気になれない」と強く思っているからそれがモチベーションとなり、細胞が活性化して悪いところをすぐに治してくれる。治さないわけにはいかない。

数か月前、階段で倒れた。倒れたところにちょうどでっぱりがあり、それがスネに深く刺さって穴が開き、2週間血が止まらなかった。病院に行くと包帯を巻かれるから面倒くさい。病院に行くべきかちょっとした賭けだったが、絆創膏の進化のおかげで、なんとか1か月以上かかって自然に治った。キズパワーパッドは素晴らしい。しばらくは出血が多く、外出先で大きめのものを一日に数回貼り替えたが、キズパワーパッドのおかげで毎日風呂にも入れた。

階段をのぼっている時に倒れてよかった。一瞬意識を失ったので、くだりならもっとひどいケガになっていたかもしれない。

それ以来、私は全ての階段を毎回気合を入れてからのぼっている。一人暮らしでなかったらここまで慎重にはならない。一つも保険に入っていないのも健康にいいのかもしれない。二度と階段で倒れるわけにはいかない。

朝起きて、すぐにゴミ出しに行った帰りに倒れた。寒い朝だったので体の血液の流れが悪かったのだろう。その日以来、朝起きるとまず体操をして全身をほぐし、気合を入れてからゴミ出しに向かう。体操は一日も欠かさない。どんどん健康になっていく。

私は古い団地に住んでいる。何十年も前からの知り合いも近所にたくさん住んでいる。車椅子に乗っているのは車椅子を押してくれる家族がいる人だけで、一人暮らしが長い老人はみな75歳を超えても自転車に乗って挨拶してくる。

全て一人で自分でやらなければならないから気合が持続する。自分一人で食料を買いに行き、メシをつくり、重い物を動かすしかない。常に病気になるわけにはいかない、と実感しているからその考えが行動にあらわれる。最後の最後まであきらめるわけにはいかない。

私は母の介護も父の介護も経験した。母と父は長く別居していたので、それぞれ別々に私と老後を過ごした。二人とも、私がいなければら要介護にはならなかったのではないのだろうか。(山田)

 

 

| chat-miaou | 12:43 |
介護日記 9

 

週に二度、病院にいる父のスリッパを取り換えに行く。

無理に頼んで入院させてもらっている。

父は病院でもオムツを拒否している。

私は朝早く父のところにいく。

たまにトイレがクソまみれになっている。

私が掃除しなくても掃除のおばさんがやってくれるのだが、申し訳ない。

毎朝8時に掃除のおばさんがくるからその前に行く。

それでも、私が行く週二度以外はおばさんが父のクソを掃除している。

掃除するのは時間がかかる。自分につかないようにたくさんのトイレットペーパーをつかった時間をかけて慎重に便器をみがいていく。その日一日は食欲が失せる。

ごくたまに看護師さんの所にお菓子をもってお礼をいいに行く。

病院で嫌がられて追い出されたら、また私が自宅で父の世話をすることになる。私はもう父の世話をすることができない。

父も看護師さんや掃除のおばさんに迷惑を掛けてはいけないとわかっている。だから気合が入ってクソや小便をもらすのは2週に1度程度だし、看護師さんに強く注意されれば風呂に入って体を洗い流す。父が拒否しても聞かず、危ないからといって爪を切ってくれる。父もよそ様には怒鳴らない。

私ではそうはいかない。もらしたまま着替えない。手を貸そうとすると怒鳴って拒否する。風呂には1年以上平気で入らず、やっと入っても体を洗うことなどできない。ヒゲはそらない。鼻毛があふれ出る。爪も異常なくらいのび、手を洗わないから野生動物より汚い。何度掃除しても後から後からもれてくる。着替えないから何度ふいて回っても切りがない。虫が湧く。毎日洗濯に3時間かかった。

とても簡単なことだ。父以外は誰もがわかっている。オムツをすればいい。これがどうしてもできない。

本人はプライドが高いからオムツなんてつけられないというが、もう50回はもらし、その度、誰かがその後始末をしている。その事実を認めない。人間は自己肯定しないと生きていけない。少しボケているからもらした事実を認めず、その事実を忘れ、自分に都合よくなかったことにする。ウソをつくのと違い本心からオムツは必要ないと思っている。

スリッパからだけでも部屋中に悪臭が放たれる。

私と父の場合、できるだけ離れた方がいい。私を怒鳴って無理矢理従わせることができても、病院ではそうはいかない。

車椅子にもなかなか乗らなかった。他の病院に検査に行かなければならず、私が付き添うのだが車椅子など必要ないと怒鳴る。

しかし、歩けない。

車椅子を支えにするという。父が車いすを支えにして無人の車椅子を押して歩き、その後ろを私がついて歩く。誰がみても認知症の老人だった。

なかなか前に進まないので手を貸そうとすると怒鳴るが、診察時間に間に合わなくなるので少しきつくいって車椅子に座らせた。

病院の人たちはやさしい。いうことを聞かない父がベッドに縛られたことがあった。ベッドに体を縛り付けるには家族の同意書がいるので、私は許可書にサインをするためだけに至急病院から呼び出された。

数年前なら無理矢理病院を出てしまった父だが今はトイレに行くのがやっとで、それ以外はずっと寝ている。

全て父が悪い。看護師さんや掃除のおばさんのストレスも限界に達しているかもしれない。病室のにおいもひどい。

オムツをするだけで解決する。

80歳を超えた老人がよくなることなどない。よくなってもらっても困る。長く生き過ぎている。死ねなくて困っている。絶対にあんなに長く生きたくない。もっと早く時が過ぎ、老化して欲しい、もっと早く歳を取って自意識がなくなって欲しい。私も、おそらく看護師さんも掃除のおばさんもそう願っている。(山田)

 

 

| chat-miaou | 09:56 |
介護日記 8

 

父の検査に付き添わなければならず、朝が早いから早く寝なくてはならないのだが、そのプレッシャーで眠れない。遅刻することはできない検査なので、酒を飲みにいく前に目覚ましをセットした。寝酒のつもりで近所のバーにいくと止まらなくなってしまい、少ししか眠れず、ひどい二日酔いになってしまった。

父を車椅子からタクシーに移して大学病院に連れていき、タクシーからまた車椅子に移し、数か所検査して回る。

午前中だけでは終わらず午後になり、数年ぶりに父と二人で昼食をとった。二人でカツカレーを食べながら会話はなかった。

子供の頃は父と二人で映画や野球をみにいった帰りに向かい合って外食した。父はいつも私の食べたいものを聞き、食べはじめる私に「うまいか?」と聞いた。

これが二人で向かい合ってとる最後の食事になるような気がした。

このところ、歩けない父の付き添いが続いている。長い時間父と二人でいる。

「こんなに長い間お父さんといるなんて生涯ではじめてだね」「そうだな」

仕事好きで友達が多かった父はいつも忙しく、家にいることが少なかった。

ずっと車椅子を押していると座ることができず目まいがした。

先生から説明を受けている時、目がみえなくなってきたので倒れるのがわかった。その場にしゃがみ込んで、騒ぎになると悪いから先生にめまいがすることを伝え、しばらく床に座らせてもらったのだが、診察の邪魔になる。

少し休めば元に戻ると伝えたが近くのベットに運ばれた。目がみえないから5分だけ寝た。父のトイレの付き添いを看護士さんお願いした。

血圧を測られそうになったが、今は病院にかかるわけにはいかないので拒否した。

「顔が真っ青だ。尋常ではない冷や汗をかいている」と先生が心配してくれたが、寝不足で通した。酒を飲まなければこんなことになることはない。

ベットで横になり目をつむっている私の横で車椅子の父が「こういうのはやめてくれよ」とつぶやいた。人に迷惑をかけてはいけない。

この日以来、私は用がある前の日は酒を飲まなくなった。誘いもきっぱり断ることができるようになった。

20歳から酒を飲んで27年、やっと酒にも飽きてきた。もう未来はないのはわかっているがまだまだ本を読んで勉強したい。勉強には希望がある。目が悪くなって文庫本を読めなくなったのがつらい。(山田)

 

 

| chat-miaou | 01:01 |
ダイエット禁止

 

ダイエットをしている人をみると、すぐにやめるようにいう。

痩せるかもしれないが、必ず元に戻る。周りの人も芸能人もみんなダイエットに成功しているが、その後必ず元に戻っている。モデルと女優以外は太っていようが痩せていようが何もかわらない。健康にいいといったって、食べたい物も食べられないようでは健康ではない。楽しくない。楽しみがない人生はつらいことばかりの人生になる。

私の母の糖尿病が悪化した時、私は母の食事から肉、魚、油を奪った。親孝行のつもりで大変な親不孝をしてしまった。

甘い物が好きだった母があずきの缶詰を買ってきて食べているのをみて取り上げ、流しに捨てた。

揚げ物が好きだった母が私のつくる食事では満足できず、コロッケを買ってきて私はそれを握りつぶしてゴミ箱に捨て、母は手づかみで拾ってそのまま食った。地獄のような光景で、悪いのは全て私だった。

母が死ぬと医師にいわれ、母に食べたい物を聞いた。

「みたらし団子に熱いお茶」

もう口を開けることもできない母は私の指先から一かけらのみたらし団子と一口の熱いお茶を飲み、「おいしい」といった。それが母の最後の食事となった。

私のつくる食事で母の病気がよくなったことなど一度もない。痩せることもなかった。今でも毎日後悔している。食べたい物ばかりを買ってきたら、どんなに精神的に楽だったろう。人生は一度きりなので、私にはまだそういうことがわからないでいた。現実をみず、自分の考えで突き進んだ。食べたい物は食べるべきで、食べたい物などそのうちなくなっていく。

母が死ぬと医師にいわれた時、私はフラフラになって母の病室に向かった。もうすぐ死ぬことは母にいわないように医師からいわれた。大変なショックで、生涯で一番暗い日だった。

口を開けると泣いてしまうから、歯をくいしばって母の肩をもんだ。

5分ももんでいると「もういいよ」と母がいったが、何もできないからもみ続けているうちに立っていられなくなり、ひざを床について30年ぶりに声をあげて泣いた。

「順番だから仕方がないよ、もういいから飲みに行ってらっしゃい」

これまでのことを母に謝り、母は目を閉じたまま黙って頷いていた。(山田)

 

 

| chat-miaou | 01:01 |
介護日記 7

 

父の病院に行くと、父が枕元に向かって話している。

私が来たのをみると、

「おお、やっと来たか」

とハイテンションで話し掛けてきた。

いつもは無言だから、麻酔が効いているのだとわかる。

縮んでしまった膀胱を広げるカテーテル施術が3週間に一度あり、麻酔が効き過ぎると頭がおかしくなる。

「ちょっと、昼メシ食ってくるわ」

といって立ち上がろうとするが、体が動かない。父は1年病室から出たことがない。

立ち上がろうとする父を止めるが、父は私のいうことを聞かない。

近くの看護師さんを呼んで助けを求める。

あわてる私と違い、看護師さんは慣れている。

父の自由にさせ、倒れそうな時に体を支えてくれる。父は看護師さんに「このへんにうまいチャーハンありますかね?」なんていっている。私は40年以上、父がチャーハンを食べているのをみたことが一度もない。普段私とほとんど会話をしない父は、実はチャーハンを食べたいのかもしれない。

しばらく好きなようにさせ、立てないことがわかりあきらめると、ベッドに戻された。

他人だから余計な感情がなく、仕事に徹し、サバサバしている。いうことを理解できないボケ老人に、見事な対応であった。

看護師さんが行ってしまうと、親友の内藤さんが下で煙草を吸っているから煙草をもらってきてくれ、という。父は煙草をやめて5年になる。内藤さんがお見舞いにきているといい張るが、内藤さんは今年亡くなった。完全に頭がおかしくなっている。

また立ち上がろうとしはじめ、私のいうことを聞かず、ついに床に倒れ落ちた。

床に倒れて、立ち上がろうとしても体がグニャグニャで動けない痩せこけた父の姿は人間とは違うようだった。

不慣れな私はナースコールで看護師さんに助けを求め、きてくれた看護師さんは私に、父をベットに縛っていいか、聞いた。こんなことを繰り返しているとケガをする。

ベットにベルトで父の体を固定する承諾書にサインした。私がいると、また怒鳴り出すから、父には何も説明せずに、とっとと病院を後にした。私が来る前はおとなしく寝ていたというから、すべて病院に任せた方がいい。

立ち上がろうとする父を止めようとしても父は私のいうことを聞かずに怒鳴ってきたが、看護師さんには敬語をつかって応対し、自分の体が動かないことを認め、悲しそうにベッドに戻った。

ここに介護問題がある。家族が要介護者と距離を置き、施設に任せれば面倒な問題や苦悩がだいぶ減る。

私は仲のよい家族ではなかったから、ありがたく全てを病院に任せたいが、仲のよい家族は放っておけないらしい。中途半端に任されると看護師さんは仕事がはかどらない。病院や施設にあずけることができないということは、それらの仕事を家族がやることになり、他のことはできない。(山田)

 

 

| chat-miaou | 01:01 |
普通の人

 

最近は父の病院にあまり行かない。行ったって何も話がないし、することがない。ここら辺で距離をおいた方がいい。行かなければ行かないほど父は私に頼らなくなる。元々仲のいい親子ではない。

甘い物に飽きてしまってからは私が父にしてやれることはない。病室の棚に日持ちのするお菓子を多めに置いておいたが、しばらく減らないままだった。

久しぶりに病室に行くと、お菓子がなくなっていた。

私の酒と一緒で一度飲まない日が続くと飲まないでも平気だが、また飲み始めると止まらない。父も酒飲みだったから甘いお菓子も同じようなものなのかもしれない。

一日にビスケットやクッキーやチョコレート菓子を2箱も3箱も食べる。

「あると食べちゃうからあまりたくさん置かないでくれ」

と父はいうが、買いに行くのが面倒だから私はそっと棚の奥に買い置きしておき、父はそれを探し出して食う。

父のいうことを聞いていると振り回されてこちらがおかしくなる。人間にはそれぞれ生活ペースがあり、それを他者から妨害されるとストレスがチクチクとたまっていく。

在宅介護をしている時、食べ物を冷蔵庫に入れておくと、外に買い物に出掛けなくなり、歩かなくなるから買い置きはしないでくれ、と父から強くいわれた。しかし、父が買い物に出掛けることなどなく、腹が減り、時には飢え、私の携帯に電話してくる。連絡は増え、私は振り回される。一日に3度も4度も呼び出される。要介護老人との関係は、距離を置かなくてはこちらもやられてしまう。

甘い物を食べたいのならば、食べたいだけ食べればいい。食べたい物など、どうせそのうち飽きてしまう。80歳を過ぎ、歩くこともできないのだからせめて食べたい物を食べたいだけ食べればいい。父はもう死にたがっているし、6年も寝たきりの状態で、これから先元気になることなんてありえない。元気になられても困る。

私は糖尿病の母の食べたい物を治療のつもりで奪い、それを深く後悔している。食べたい物を食べてもっと早く死んだ方がよかった。悪いことをした。そのことを父に話すと「そうだな」と納得した。父は母とずっと別居で、病気の母の世話をいっさいしなかったのでうしろめたさがあるので、私は母の話をして父を説き伏せることが多い。それが一番話が早い。

食べたい物を食べないで長生きする意味は父にない。血液検査なんてもうどうでもいい。

振り返ればわかるが、母の悪化した糖尿病がよくなることなんて一度もなかったし、食べることが好きな母に食べること以外の楽しみは何もなかった。

糖尿病は治るのかもしれない。もしも決められたカロリー、例えば11000キロカロリーで一生過ごし続ければ治りそうな気がするが、そんなことをできる人は普通はいない。生まれもった胃袋の大きさがあるし、人それぞれ体が求める食欲がある。世の中の99パーセントの普通の人は食べたい物を食べたいだけ食べる。楽しくておいしくて気持ちがいいから食べる。

食欲を自由自在にコントロールできるほど食欲の弱い人なら糖尿病になどならないし、太ることなどなく痩せている。

1000キロカロリーなんて、ろくに酒も飲めず、酔うこともできない。肉も魚もごはんもパンも、おなか一杯食べることができない。

私の痛風も酒を飲まなければ発作が起きることなどない。魚を食べなければ、肉を食べなければ痛風は治るが、そんなことをして治しても他にすることがない。他にすることがあるならそれでいいが、普通の人はいつまでもすることなんてない。目も感受性も老化するので音楽も映画も漫画も小説も長くて面倒くさい。普通は年下の若者を尊敬することはできないので新しい作品を受け入れづらい。普通の人は鮨屋へ行くぐらいしか楽しみがない。

テレビで高齢者問題を扱う番組を見ていると「ただ生きているだけ」という老人が多い。

エリートだった私の父も老後は読書、孫と旅行、ゴルフ、などといっていたが、実際は本など一冊も読まないし、糞まみれで寝たきりで、全ての誘いに完全無視を貫いている。もう誘いを断るのも面倒で、電話も無視している。早く死にたい。活発で、やりたいことだらけの老人なんて普通の人ではない。私の一族はできるだけ迷惑にならないように糞まみれになってひっそりと暮らしている。

結果が出ている年齢になったら、せめて飲み食いだけは自由でいたい。

食事制限をして体形を変えることは誰でもできるが、それは本当の姿ではない。普通に気持ちよく食べればすぐに自然の姿に戻っていく。

私もこれまで食事制限により同じ身長177センチで50キロ台1回、60キロ台に5回以上したが、普通に気持ちよく食べてしまうとすべて3か月で本来の80キロ台に戻った。本来の体重以上に増えていくこともない。そのうちまた気が向いて60キロ台になることがあるかもしれないが、すぐに本来の体形に戻るのはわかっている。

ダイエットに成功した有名人は必ず、「私の場合は正しいダイエット法なので、リバウンドしないと医者にいわれた」といって本まで出版するが、みな絶対に遺伝子で決められた本来の体形に戻り、沈黙する。リバウンドではない。元に戻る。本来の、自然で正しい姿に戻る。不自然には無理がある。体が毎日ずっと本来決められている体形に戻ろうとしているのだから止められるわけがない。

病気で胃を切り取った人は痩せたままでいる。食べたくても入らないから元に戻れない。

現役のプロスポーツ選手か人気女優でもない限り、毎日食べる量なんて面倒くさくて計っていられない。「こんなことしてなんになる」と思う日が必ずやってくる。実際、普通の人が痩せても周囲からガンではないかと噂される程度で、特別かわったことなど起きないし、女にもてることもない。本を出版することもない。

太っているから嫌われるなどということはない。鼻毛や口臭は嫌われる。鼻毛は抜いたり切ったりすればいい。口臭は歯医者に行き、歯磨きの回数を増やせば防げるからそうしないと嫌われる。生まれもって決められた体形をまずは受け入れ、食べたい物を楽しんで食べ、それから対処する。

誰でも痩せられる。痛風は治る。糖尿病も治るのかもしれない。治ったって特にすることなんてない。(山田)

 

| chat-miaou | 01:01 |
親子の会話



母が危篤になった時、私はキャバクラで飲んでいた。具合が悪いのはわかっていたから心配はしていて、キャバクラ嬢との会話も上の空だった。

「今日、晩ご飯何食べた?」「豆腐」「何味?」「醤油」

近いうちに死んでしまう母と話をした方が有意義なのはわかっているのだができないでいた。楽しくてキャバクラに行っているのではなく、他に行くところがなかった。

携帯の電波が届かない地下のキャバクラを出ると、留守電が残っていて、母の入院する病院からで、母は危篤になっていて、それから12日後に死んだ。

最後の入院の1週間前には白内障の手術を一人で受けに行き、手術を終えてサングラスをかけて帰ってきた。もう腎臓が機能しなくなっていて、母の体は大きくふくらんでいた。むくみで大きくなって、苦しそうにしているサングラスの母と目が合ったが、私は言葉をかけることもなく自分の部屋に戻った。母が死ぬのがわかり恐かった。

私は「おかえり」も「おはよう」もいっさいいわない人間で、母もそういう息子だとわかっていたが、病院に付き添いぐらいはするべきだった。母の古くなったスニーカーをそっと買い替えておくぐらいはできた。

母の世話は一通りしたが、一度、頭にきてしまいゴミ箱を母に投げつけた。病院で母が死ぬ、と先生に伝えられた時、突然その時の母の怯えた顔が頭によみがえり、今までに感じたことのない恐怖を味わった。どこかにずっと母の怯えた顔が残っていて、その後悔を払拭することができないでいた。今でもあの顔を思い出し、鉛を飲んだような気持ちになる。

母の葬式の最中あの時のキャバクラ嬢からメールがきた。

「お疲れちゃん!」「今、母の葬式」

それ以来、彼女からメールがくることはなく、私が店に行くこともなかった。

母が死んでも父がいる。父とは後悔のないように話をしておこう、と本気で冷静に意識しているができないでいる。

何度も覚悟して今日こそは、と会話を考える。頭の中のリハーサルではうまくいく。病室で朝の連続テレビドラマをみている父に話し掛ける。

「この子、勉強もできるんだって」「ふーん」

後が続かない。

もうあきらめた。私にはできない。やるだけのことはやった。
決して怒らない。

三日おきに父に会いに行き、「おはよう」「おはよう」「じゃあね、お大事に」「ありがとう」だけをいい合う。(山田)

 

| chat-miaou | 01:54 |
介護日記 6



親の介護は精神をやられる。なぜかというとこちらの身動きが取れなくなり、親のペースで生活することになる。外泊はできない。人のペースで生活するのはかなりの苦痛となる。

施設に入ってくれるのが一番だが、施設に入るのを嫌がる。プライドが高い人はデイサービスも受けない。本人は自分でできる、「デイサービスは必要ない」と思っているが、できていない。介護認定を受けているのだから、結局すべて私がやることになる。

近所でも親子で仲良く病院に行く姿をよく見掛けるようになった。ああいう仲のよい親子の介護関係は私にはできない。あれではほぼ24時間一緒にいることになり、親の依存度は最高域にまで達する。仲のよい親子の介護は幸せなのかもしれない。晩年に親密な関係を持つと、介護が終わった時の喪失感が耐えきれないほどにひどいらしい。

私は親がどんなに淋しそうな顔をしても一緒にメシを食わない。できるだけ一緒にいない。

短時間集中で食事の支度をし、掃除をし、クソの始末をする。朝と晩、1時間づつで済ませれば、それ以外の時間は自分の自由になる。

父が歩けなくなると、12回では済まなくなり、どうしても3回世話をすることになったが、2回と3回は大きく違う。まとまった長時間の自由時間が夜だけになった。

話は昔からしなかったから今もしない。何しろ私と父は20年近く目を合わせることもなかったのだから今さら話し出すのもお互いわざとらしくて気持ちが悪い。

父が入院した時、13度も携帯で電話をよこした。シャンプーを持ってきてくれ、耳かきを持ってきてくれ、テレビカードがなくなったとかいうものだが、家が近いのでその度に病院に届けた。看護師さんが振り回される私をみて「甘やかさない方がいいですよ。クセになりますよ」と言った。病院には一通りそろっているので、毎日世話に行く必要はないのだ。

父が何度も携帯をなくすので、病院から「持って帰ってくれ」と言われた。

携帯がなくなると連絡がこないので私は楽になった。実際父が困ることもない。病院や施設に全て任せるのが一番いい。親を甘やかしていては共倒れになる。

父の携帯を預かっているが、ひと月に1度程度しか鳴らない。数少なくなった友達かセールスの電話しかかかってこない。私が看取ることになるのがよくわかる。

病院や施設にいる間はプロに任せておいて間違いはない。3日か4日おきに様子を見にいくのがちょうどいい。何も話さず、お茶とテレビカードを補充し、病室を掃除して30分程度で帰る。緊急の場合は必ず病院から電話があるが、緊急の場合など最後の最後の時しかない。

看護師さんは仕事として老人の世話をしているのだから、身内のように余計な心配をし、ダメージを受けて共倒れするようなことにはならない。とてもありがたい存在である。(山田)
 

| chat-miaou | 12:52 |
懐かしき母

 

 

自分の家族を自慢されるとむかつくが、私は自分の母がやさしい人だったのではないか、と思う。息子の私に対してやさしかったのは親なのだから当たり前だが、友達に対してやさしかったかもしれない。死んでからも友達やご近所の評判がいい気がする。死んでから10年以上経つのに、あなたのお母さんに助けてもらったことがある、と今だに言われることがある。

母は12日間の危篤状態ののち死んだが、病院に入るわずか2日前に友人である町田さんと花見に行っていた。車椅子から自分の車に町田さんを移して花見に行った。

町田さんは昔のご近所で母と町田さんは気が合い、町田さんが他の町に引っ越していってからも付き合いは続いた。

母が会社を辞めた頃、町田さんは脳梗塞で倒れ、歩けなくなった。母は車に乗って頻繁に町田さんに会いに行くようになった。町田さんは脳梗塞の後遺症で言葉が不自由になり、口数が少なくなった。

息子さんがおす車椅子に乗って葬儀に町田さんが現れ、母に頭を下げ、私にも頭を下げた。

葬儀からしばらく経って、町田さんから電話があった。何を言っているのかわからず、最初はいたずら電話かと思ったが、よく聞いて解読してみると町田さんであることがわかり、しかも泣いているのでさらによくわからない。

自分が病人面してあなたのお母さんの病気を悪くしてしまって本当に申し訳ありませんでした。私のような役立たずが死んでしまえばいい。どうしても自分の口であなたに謝りたかった、ということだった。

母はきっと花見を楽しんだ。町田さんを楽しませることができて母自身が満足した。母は自分が2日後に危篤状態になるとは思っていなかった。すでに苦しかったはずだが、人間は人生を一回しか経験できないので限界をわからないでいる。

「最後まで母と付き合ってくれてありがとうございました」

母だったら町田さんにどんな言葉をかけるだろうと考え、私も泣きながら町田さんにお礼を言った。(山田)

 

 

| chat-miaou | 02:44 |
介護日記 5
 


父の具合がよくなってきている。父は内臓が相当に強いらしい。病室の中なら歩けるまでに回復した。 

回復するとさっそく、「家に帰る」と言い出した。

レスキュー隊に病院へ運ばれていった日、感傷的に「もうこの家に帰ってくることはないだろう、今までありがとう、後のことは頼むな」と言っていたのに人間は勝手だ。その時の気分で話している。

遠回しに、もう施設に入ってもらわないと困る、というようなことを言ってみたのだが、頑固に「嫌だね」と怒り、私をにらんだ。

もうダメだ。限界だ。あのクソまみれの日々に戻る自信がない。もう、気が抜けて朝起きることすらできない。

初めて市の福祉課へ行って相談した。

担当の女性に現状を話すと「よく我慢しましたね」と声を掛けていただき泣きそうになってしまうと、その女性が代わりに泣いた。

とりあえず介護認定を受けなければ、介護保険証も発行されず、各種介護サービスも受けられないらしい。施設に入る時も、介護保険証が必要になる。

申請から2週間後に担当者が病院にいる父と面談し、担当医から聴取をし、それからひと月後に受けた介護認定は2だった。もう少し前に申請したらもっと重い認定だったはずだ。認定期限は6か月で、その後はまた認定を受けなくてはならない。

介護認定の存在など知らなかった。

母の介護をしている時は、介護している自覚もなかった。いつも会社をクビになる私が、また会社をクビになるとちょうど母の病気が悪化し、そのまま死ぬまで6年、食事や掃除や洗濯の世話やクソの始末をした。できるだけ地味で汚れが目立つ女物のパンツを通信販売で大量に買った。ニートと呼ばれ、世を避けるような暮らしだったが、母が死ぬとみな、「よく頑張ったね」と泣きながら言ってくれた。その後、介護の現実が頻繁に報道されポピュラーになると、ニートから介護経験者に格上げされ、私もその気になったが、暗い日々だった。

介護認定申請をし、担当者が「これで少し前へ進めますね」と言ってくれたが、エリートだった父はプライドが高い。介護サービスなど決して受けない。受けるわけがない。

私はもうあきらめている。近いうちに、父はまた倒れ、意識がなくなる。意識がない父を自宅で介護することなく施設に入れる。その時のために備えての計画的介護認定申請だった。(山田)

 

| chat-miaou | 02:24 |